投稿日: Aug 29, 2011 11:14:54 PM
局所的議論から抜け出さねばと思う方へ
原発を稼動させるか止めるか、代替エネルギーは何がよいか、節電はどうするか、売電・電力業界の構造、などの話はすべてつながっていて、個々の専門知識を駆使した説明とか、個々の将来ビジョンを聞くだけでは判断ができないところが多い。今のジャーナリズムは議論を避けているように見えるし、一方ネットでは対立ばかりが目立っているが、民主主義の原則として最終的には一般人に判断をしてもらわなければならないのなら、人々の日常のライフスタイルにどう影響するかというように専門情報を咀嚼をして示すプロセスが必要になるだろう。しかし専門情報を総合化して哲学的な議論にすることは日本人は苦手なのである。世界の他の国でも一般人が哲学的議論ができるわけではないが、宗教観がその代わりをしている。しかし日本は仏教国とはいえ、価値観の基準としては既に機能しないようになっているから、大衆的な説明が困難なのであろう。
これは私の想像部分も含まれるがキリスト教イスラム教ユダヤ教などの天地万物創造主を基とする考えでは、人工的に遺伝子に影響を与えることはいけないし、ライフスタイルも自然主義が原則であろうから、少々文明に逆らうようで不便でも省エネルギー生活を目指すことを選択するであろう。これには幸福感も関連していて、経済的成長とは切り離している。それは階級社会という点もあり、全国民が同じ物質的な豊かさを享受することはありえないが、物質的でないところでは貧乏人も幸福に暮らせるとしておかないと、階級を壊してしまうことになるからだろう。だから経済成長が鈍化する点は上層部が我慢すれば社会は変えないでも済むことになる。
東日本大震災の折にある知事が物欲への天罰だという発言をしたが、天罰ならばやはり東京に震災が起こるべきであろう。日本の政治は大衆の物欲をくすぐって勤労意欲や消費増大をさせてきた。今となって急に物欲によらない政治ビジョンなどできるわけはない。大衆には今以上に物欲をあおることはないのだろうが、物欲が人生のすべてであったような人から物欲を取り上げたら廃人化するかもしれない。ここで必要なのは物によらない幸福感である。どこかの宗教政党がなんと言っているのかは知らないが、物欲の埋め合わせとして必要なことは幸福感の尺度を考え直すとか議論できるような環境を作ることであろう。
ソーシャルメディアで天下国家を論じるようにはならないだろうが、Blogで展開された個人の小さな幸福というのを、みんなで共有するようにはなるだろう。大震災で何もかも失った方がどのように立ち直ろうとしているかとうい話を聞いたときに、元の暮らしに戻ることを第一に考えるのではなく、価値観が変わってきているということが印象的であった。こういったことはまだ被災者のソーシャルの中にしかないかもしれないが、他のソーシャルにも波紋が広がるといいと思う。社会問題を取り上げるとしても、NPOなりボランティアなり何らかの実態のある活動をしているところが具体的な事象をデータ化して提供することで、単なる対立ではなく、お互いに意味のある議論ができるようになる。今放射性物質の残留については計測した地図が日々公開されているが、それらが示す危険性とは関係なく風評被害が起こっている。情報はあっても理解してもらえていないところにソーシャルメディアがもっと力を発揮するようになってほしい。