投稿日: Jan 10, 2015 1:14:55 AM
うちの息子は朝食時に片手に食物、もう一方の手には新聞、という古風なスタイルだが、1日の総量としては新聞の何十倍もスマホでニュースや記事を読んでいる。テレビはほとんど見ない。しかし世の中には新聞は読まずにネットのニュースだけという若者も多いと思う。そして時代とともにそういう人が増えていくのであろうか?
多くのメディア技術がデジタル情報の配信が将来の主流になる前提で開発を進めているのだろうが、そうなるのに必要な条件をあまりよく調べていなかったようにも思う。キャプテンシステムで目指していたようなことはパソコン通信の時代には普及せず、Webの時代に実現された。例えば1980年頃からのニューメディア論はいつも前のめりな調子で未来予測をしていたが、大抵のニューメディアの実現は10年以上遅れている。技術革新という変遷が続く中で、応用面の着地点を予測することがどれだけ難しいかということでもある。
何年か先には新聞はなくなるとかテレビはなくなるという話もあるが、メディアのネット化に向けて一直線にどんどん進むというトーンは少し翳り始めたように思える。それはウェアラブル端末の普及のテンポを遅らせるものになるかもしれない。日本では若者がネットの情報の真偽を判断できなくなっているという調査もあった。ネットは誰でも情報発信ができるがために、従来のマスメディアのような一定水準の情報にフィルタするところがなく、タガが外れたものであることが、ネットの利用者にも理解されるようになったのだろう。
従来から、新聞、テレビ、雑誌などの様式の中のそれぞれのメディアには何らかの情報発信のスタンスがあって、同じ事件があっても見出しの作り方には癖があった。例えスポーツ新聞が勇み足の見出しをつけても真顔でクレームをつける人はいないし、赤旗のスクープを告訴する人もいない。これらはいわゆるメディアリテラシーというものがあるから容認されているわけで、タガの外れたネットメディアではメディアリテラシーが成立しえないということかもしれない。
現在のネットの百家争鳴状態は、ネットの情報の信頼性を下げてしまったわけで、このネットによる情報拡散の自己矛盾のような状態を脱するには、メディアリテラシーというのも対象とする範疇を素人のblogやコメントの書き込みまで広げて考え直さなければならなくなったということだろう。しかし新旧メディアが牽制し合っているような状態では、メディア横断的な考察の場はなかなかできにくいように思える。
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