投稿日: Feb 11, 2011 10:36:0 PM
単に名前を変えているだけだと思う方へ
最近キュレータに関する本とか書き込みが多いようだが、中にはキュレータを勘違いしているとしか思えないものもある。今までコンシェルジュとか「まとめ」とかと何が違うのか? 私は学生時代の専門が美術館・博物館が対象で、今でもどこか出かけるとそういったところに立ち寄るし、デパートでの展示なども企画や展示方法について気になることがあって、作品とキュレーションというのをわけて考えることが多い。しかしそういった本来のキュレーションに比べると、今Webで必要だというキュレーションはずいぶん軽い扱いという気がする。
そもそもキュレータが日本語になっていないのは、日本の美術館・博物館では学芸員という肩書きで同じような役割がされているものの、社会的な評価が違うからだと思う。キュレータというと、まずその分野の研究者として有名で、圧倒的な専門分野の知識や人脈があって、その分野では評論家としても一流と認められていて、展示の企画だけでなく、真偽の鑑定もできるとか、専門書の監修にも名を連ねるような人であったはずだ。平たくいえば、アーチストとは別の評論家としての権威者であり、もっと平たくいえば、お宝鑑定団の鑑定人のような人や『「おさかなクン」さん』もキュレータの雰囲気がある。
CD-ROMコンテンツが出始めた1993年頃に話題になったMicrosoft Multimedia Beethoven : The Ninth Symphony : An Illustrated, Interactive Musical Exploration [制作はボイジャー?]は、確かレコード店員でムチャクチャクラッシクやベートーベンに詳しいアメリカ人がキュレーションしたものだったと思う。このCDでデジタルのマルチメディアは面白いと気づいた人は多いと思う。私も凄いと思った点は、マルチメディアの制作はバーチャルな展示であって、マルチメディアの良し悪しはキュレーションの手腕にかかっているな、ということだ。しかしこの作品の世界的評価はまちまちで、ヨーロッパではアメリカのアマチュアが手がけたものなぞ相手にしてもらえない雰囲気があった。つまり旧来のヨーロッパのキュレータは伝統的な権威に裏打ちされていることが必要だったのだろう。
今話題のキュレータはそのようなものではない。学生時代に私は前衛芸術のようなものが対象だったので、そういった分野はアカデミズムはなく、ある意味誰でもキュレータになれるものでもあった。つまりまだ評価が確立していない分野は熱意と圧倒的な情報量をハンドリングすればキュレータになれる可能性はある。しかし『「おさかなクン」さん』はなろうとしてなれるものだろうか? それなりの年数をかけて培った自他共に認める知識量以外のセンスがキュレータには求められる。むしろキュレータに向いた人を発掘することが、メディアの側では課題となるだろう。