投稿日: Dec 17, 2013 12:51:28 AM
電子教科書に一般論はない
どこの国は何年になると電子教科書が採用になる云々という記事が飛び交っていたのは2~3年前だったか?これは国際レースでも何でもないので、早ければよいというものではなくて、どれだけのことを考えているのか、準備しているのかというところにもっと焦点をあててみなければならない。例えば、タブレットや電子黒板といった機器や、画面のオーサリング・インタフェース、また生徒側の負担やリテラシー以上に、コンテンツの供給とか、教員の再教育とか教える側の遅れの方が深刻だからだ。
映写機・レコードなどの情報機器の登場、またラジオ・テレビの登場、またテープレコーダーやカメラといったハンディ機器の登場の際には、これで視聴覚教育をすればいい事があるようにずっと言われてきた。子供の頃夏休みに、35mm 36枚撮りフィルムを使って、植物の生育を種子から毎日写真を撮ってレポートにしたことがあった。自分の子供にはカブトムシの飼育をビデオで撮らせたこともあった。それぞれの生徒が異なるテーマを扱うので、こういったレポートをお互いに見せ合うと面白い。しかし不思議なことに学校教育としては(自分の子供の学校の場合だが)視聴覚機器を使った授業が定着して教育の一角を担っている様子はない。
つまり紙の本を順次めくっていく教育が支配的であるなら、タブレットとか電子黒板も亜流に過ぎない。むしろカリキュラムをシーケンシャルにこなすのではなく、感じたり、考えたり、意見交換するという「場」を教育に持ち込むことが大きなハードルなのではないかと思う。
何々教授の白熱授業とか熱血授業とかを見て「いいな~ぁ」とか思っている日本人は多いが、アメリカ暮らしの人はそれがあたりまえだといっていた。要するに教える文化の差である。だから生徒の参加型教育は日本人はまだ苦手なのだと思う。
しかし先生の中には自分で実験を工夫して、他の人も利用できるように、ちゃんとコンテンツ化している方も結構おられるので、自然発生的には参加型情報共有の教育の土台は日本でもできつつある思う。しかし役所主導でそれらを取り入れることは困難があるのだろう。
視聴覚と教育というテーマは古いものなので、それらの過去の知見を継承すると共に、教師が参加型で情報共有できるネットワークと、生徒も参加する教材作りなどが、電子教科書のプロジェクトと共に進む必要があるが、参加型になると教育の統一性は薄らぎ、多様性を認めざるをえなくなるところが、役所からするとネックなのかもしれない。