投稿日: Jan 07, 2013 3:29:45 AM
出せば売れるものではないと思う方へ
新しいメディアは、新しいタイプのクリエータや編集者、プロデューサが作り出すのだろうなという気持ちで、記事『音楽雑誌に代わるものはあるのか?』では、脱コピペ(その昔なら切り貼りといったものだが…)のメディア作りからはじめなければならないことを書いた。今までのインターネットの文化はその逆で、すでにどこかにあるけれども、埋もれていて人々がなかなか発見できにくくなったコンテンツを、検索エンジンなりECサイトという形で再商品化するもので、あまりクリエイトの要素がないものであった。このネットによる発見のしやすさや利用の簡便さはメディアの流通に大変革をもたらしつつあり、レコード・CDから音楽配信、TVに対するYouTubeとかネット配信、書籍に対するeBookという変化を起こした。この方向は更に進むことは間違いないが、ひとつ抜けていることがある。
それは元になるコンテンツがどう作られるか、あるいはどうリメイクされるかであり、それが変わらないのであれば、ネットでコンテンツを利用することは早晩飽和していくであろう。つまり従来のメディアとデジタルネットの違いが流通方法だけであれば、コンテンツによっては従来の流通が主でネットが従となり、別のコンテンツでは逆転するというように、落ち着いていくだろうが、実際には落ち着かずにまた別の競争相手が登場する。これはアナログケータイからデジタルケータイになると着メロ・着ウタ・コミックその他のコンテンツがいっぱい登場したが、ケータイからスマホへの変化に於いてはそれはそのまま引き継がれずに、もっとパソコン寄りのアプリ・ダウンロードが発達した。新たなメディアが離陸するには新たなプロデュースが必要になるのである。
考えようによるが、着メロ・着ウタ。ダウンロードと媒体は変わっても音楽は音楽、ゲームはゲームの世界はあるのだが、やはり楽しみ方は再度創造しなければならなくなる。それに加えて動画など以前のメディアでは扱いにくかったコンテンツ分野が増えていく。ここには2つの課題があって、第1は新たなコンテンツの発見と編集をすることで、第2は新しい表現形式とか技術対応である。今の商業的eBookはどちらかというと後者に比重があるように思えるが、コミケなどアマ的な世界は前者の今までに無い面白さに向かっていて、両者を合わせたものはなかなかない。
ケータイ小説などのどこが面白いのかというのは、それを支持した特定の世代や層を別にすると、書評や批評をかなり積み重ねなければわかりにくいもので、そういった鑑定能力をもったクリティックスが雑誌のひとつの役割であったように思う。美術も音楽もクリティックスなしでは広がることはできない。そのような役割を担う雑誌を出していたのは、基本的には目利きの集まりであった。紙の雑誌が凋落するに従って、従来の目利きの出番がなくなっているが、それにも増して問題なのはネット上ではあまり良いクリティックスが発達していないことではないだろうか?これは時間が解決する問題であると思うけれども、書評や批評が無いままで闇雲にコンテンツを出しても、日の目を見ない期間が長くなるだけのような気がする。