投稿日: Feb 19, 2015 12:53:36 AM
かつて日本人の意識調査で大多数の人が自分を中流と思っているということがあったが、バブル崩壊→失われた・・年間、などを経て日本は格差社会になりつつあるという。この種の話はあまり真面目に議論しても意味がないと思う。中流とは何か、格差とは何か、云々をいろんなデータで説明する人もいるが、1960年代70年代において「中流」が意味していた内容はデータからはわからないのではないかと思う。
もともと日本も戦前からのエリート層というのは不断に続いていて、そもそもエリート層の数は戦前も戦後も今もそれほど変わりはしないだろう。時代によって変動するのは成金層で、これは見かけ上エリート層に加算して捉えられるかもしれない。その下のクラスが国民の大半を占めるわけで、その人達が自分を「中流」と考えるか「差をつけられた」と考えるのかの違いのように思う。
その下の義務教育もろくに受けられなかった人は時代とともに減っている。先日、教会に成人の方で「やはり中学卒業はしないとアルバイトしか仕事が無い」という方がこられて、なかなか行ける中学校が無いという話になった。1960年代70年代では夜間中学というのがあちこちにあったが、今東京には純日本人を対象にした学級は3か所しかなく、多くは日本語を話しせない人向けのようなことを聞いた。時代とともにニーズが変わっているのである。
日本にももともと格差はあったのが、第2次世界大戦の敗戦でガラガラポンされてしまったために、戦後の一時期だけ同じ復興のスタートラインに並ばされた。1960年代70年代において戦後生まれの子供はある程度勉強すればだれでも大学に入れるようになり、就職という点でも多くの人は同じスタートラインにならんだので「中流」意識が芽生えたのであろう。これは世界的に見ても稀な機会均等な社会の出現であったと思う。
問題はその後の日本が機会均等を活かして人材育成ができて、より充実した人生が送れ、より高い価値を産めるようになったかどうかである。どうも公教育はうまくいっていないようであるが、各家庭のレベルでは習い事などの情操教育がされたことはコンテンツビジネスにとってはよい環境を作ったと思う。学力においては通信教育や受験産業が発達したものの、学校そのものは小から大まで革新はなかったように思える。おそらくこれはもう公教育では議論が収拾しないので問題解決することはできなくて、情操教育や進学指導のように私学が担うことになるのではないだろうか。
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