投稿日: Dec 27, 2014 1:17:13 AM
私のfacebookのtimelineにはキリコ展に関する書き込みがいくつかあった。たしかニューヨークの近代美術館には有名な何点かがまとまってあったように記憶する。初期のキリコはアメリカに収蔵されているのが多いと思う。これらを見に行けるのがアメリカ旅行のメリットでもあった。ただしキリコは自分の初期の作品を後年や晩年に何度も描き直しをしていて、「贋作」とは呼べないものの、日本のキリコ展が小さな写真の紹介でされている場合にはオリジナルがあるのかと思って行ってがっかりすることが多かった。今回も本人による描き直しが多かったようだ。
こういうタイプの画家にはムンクがいて、同じく少ししかない初期作品を後年・晩年に何度も描き直しをしている。こういうことが起こる理由はいくつかあるようだ。一つは画商が描かせる場合で、初期作品で有名になった画家だから何でも値がつくと判断したのだろう。また本人が一つのテーマを描き続けるという場合もある。これは全く同じ構図のコピーのようなものではなく、やはりどことなく進化していく様子が伺えるものである。また画家が精神的に病んでしまった場合に、療法として描かせてカタルシスを得させようという場合もある。
おそらくムンクの再描画は精神病の療法で行われ、キリコの場合は画商が描かせたように書かれていたと思う。本人が描いた絵にもかかわらず、オリジナルと複製のようなものではインパクトが異なるのはどうしたことだらろう。
こういうことは音楽にもいえて、若い時の作品を後年になっても何度も録音する機会をもつ音楽家も多いが、初期の方が技術的には未熟でもインパクトが強いといわれる場合が多い。もちろん後にはいろんな良さが加わることが多いのだが、傾向はそうである。
アメリカ黒人のミュージシャンもヨーロッパで評価されてヨーロッパに移住してしまった人がかなりいるのだが、アメリカでもがいていた時に匹敵するような作品をヨーロッパで生むことは珍しい。ヨーロッパでは公演の機会が多くなるのだが、ほぼ余生のような活動になってしまって、創造性が感じられなくなる。それは本人の精神状態のせいであろうと思われ、安全・安心に浸ればひたるほど人はクリエイティブではなくなってしまうということなのだろう。
芸術は高価な代償を支払っているとも、自分を追い詰める危険な行為とも、残酷劇場ともいえるのだろう。
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