投稿日: Apr 22, 2011 12:11:39 AM
ソーシャルメディアは人の意識に左右すると思う方へ
学生時代に音楽雑誌に関わっていた時のことを思い出すようになっている。いわゆる同人誌的なものなので、今でもこの手のものは同じような作り方がされているのではないかと思う。当時は東京サイドと関西サイドでどちらも素人ながら執筆編集の傾向が異なっていて、東京は音楽評論家のような書き方をしたい傾向があったように思うが、関西は市販の雑誌では書けないことを書こうという人たちがいて、採り上げる内容も文章表現もわざわざプロの「お手本」を壊していた。そういう時代であったのかもしれないが「独断と偏見」という言葉は肯定的に使われ、別の価値軸を探していたように思う。
雑誌を作るには、音楽を聴いて原稿を書く以外に、広告取りから書店回り・購読予約・発送など手間がかかり、あまり雑誌にのめりこむと音楽を聴く時間が無くなるほどであったので、毎月は出せなかった。また広告を取ると記事にも影響が出て、本当に「独断と偏見」ということはできなくなる。「独断と偏見」とは謙遜でそう言っているのであって、読者に対してはどれだけ背景知識やデータを基に書いているのかということをチラつかせていて、実際資料の購入や資料としての音楽調査も相当行っていた。平易に言えば、プロ評論家が「良い」というものに対して違和感を感じて、異なる価値観をぶつけたかったから、同人誌のようなものをやっていたのだろう。紙媒体と異なってデジタルメディアは手間暇かけずに直接自分の価値観を世にぶつけることができるようになった。
今日のソーシャルメディアやBlog、メルマガの中にも、マスメディアのエコーであることには飽き足らず、自分自身の問題意識を表明しつつ、関連した書き込みと対照し、またそれらに対するリアクションを見ながら、自分の意識を整理していこうとしている人はそれなりにいる。もともとアメリカのBlogはジャーナリスティックなところから出てきたので、そういった傾向はあったが、日本は日記から出発したBlogが多かったので、他人と自分の対照をしようとかコミュニケーションしようというつもりはなかっただろうが、個人がネットメディアに関わることが多くなるにつれて、twitterやfacebookのように他人と自分を並列するメディアがのしてきている。
日記がパーソナルなものであるのに対して、ソーシャルと名のつくメディアの条件は、個人は一員としての存在であって、個人をグループ化している「何か」に軸を置いている緩いコミュニケーションなのではないか。この「何か」はテーマのようなものだが、QAサイトや関心に関するスレッドのような最初にテーマありきではなく、YouTube なら動画コンテンツで意味不明のものであっても、ニュースで気にかかった漠然としたものも対象にできる点が今日的な特徴であると思う。だから人が編集する以前のネタでもどんどん表に出るようになってきたし、それを通して他人と自分の対照が更に進むようになるのではないか。