投稿日: Jun 10, 2012 11:56:4 PM
なぜ波紋が広がらないかと思う方へ
パソコン通信の掲示板に不特定多数の人が書き込みをするようになって以来、掲示板の著作権については個々の書き手ではなくサイト側が権利を主張するようになったが、サイトが管理者とはいっても紙の出版のように編集者や校正者がいるわけではなく、「事故処理」的なことをしているだけである。内容は書き手が勝手に他からコピペしている場合も多い。紙の出版なら投稿内容は編集がウラをとるのだが、サイトは何もしない。それで著作権を主張するというのはアリなのだろうか?これはたまたま権利を主張する法律に適切なものがなかったので、著作権を拝借しただけではないか?
新聞の見出しに著作権があるかどうかともめたことがあったが、その程度の短文に権利が認められるのなら、掲示板の書き込みもtweetも本人に著作権があってもいいはずだ。しかしこういうことに全部著作権処理をすることはナンセンスで、著作権を離れて何らかのルールを考えるべき時にきているだろう。かつてフォントの知財権が問題になった時に、ゼロは誰がデザインしても似たものであるように、フォントデザインの独自性は認められず、むしろソフトウェアのコピー問題という方向で海賊版対策がされたように、何もすべてを著作権で考える必要はない。
つまりメディアが変わっていく段階では、既存の法務の枠内で「こういう時は…どうする」という各論の議論していては解決付かないことが次々でてくるわけで、例えばフェアユースのような各論を超えた指針を共通にもたなければ、コミュニケーションなりコンテンツ流通の活性化にはならない。そこが日本ではどうしてもパブリシングが閉塞化しがちな点かもしれない。パブリッシングが情報をパブリックにするのが目的であるとすると、あるコンテンツから水の波紋のように次々に新しいコンテンツが起こされていくのが自然であって、出版権・複製権を拡大解釈せずに抑えこんだ方が広がりやすい。
紙の出版の場合は出版社に排他的な権利を与えないとビジネスが成り立ちにくい面があった。これは紙の本は在庫を抱えるという性質があったからだ。しかしネットの掲示板は在庫を抱えないし、すでにコピペの上に成り立っているので、そこが排他的な権利を主張して、コンテンツの再発生を抑え込もうとするのは矛盾しているように思える。
そもそも著作権では同時多発的に同じコンテンツが作られても、コピーでなければOKなのだが、それは両者が全く独立した背景のものとに生み出されたと解釈されているからである。ところがネットでつながった世界では、それぞれが独立しているとはいえなくなるために排他的権利を主張するところが出てくるのだが、冒頭のようにコンテンツの管理はできない。だから単に他社が排他的な権利設定をするのを牽制する目的で、早いもの勝ちで権利の取り合いが行われているともいえる。
電子出版の場合でも、こういった権利問題の混乱に足を取られてしまっては、なかなかユニークな中身を作るどころではなくなってしまう。おそらくネットの時代のオープンなパブリシングというのは、新たな文化を創るくらいの大きなチャレンジ精神が必要なのであろう。
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2012年6月20日(水)『出版ビジネスをサービス指向で再構築する』
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