投稿日: Jan 13, 2016 12:47:35 AM
Garbagenewsに『2016年の新成人は121万人・前年から5万人の減少…新成人人口の推移をグラフ化してみる(2016年)』という記事があった。私の世代に比べて新成人は半分くらいしか居ない。私が子供の頃は、町のどこに行っても子供後うろちょろしていた。中学校に入った時には1学年17クラスあって、上の学年は23クラスだったのが、近隣に中学校ができて分割された。そんな調子だから、子供の成育とともに、世の中で「アレが足りない、コレが足りない」ということになって、高度経済成長に輪をかけていた。今とは正反対である。
成人になった時は、成人が多すぎるのと、オイルショックもあって就職難であったように思う。しかしなぜか人々の表情は明るかった。自分勝手にいろいろ新たなことを始める人がいっぱいいた。その頃に日本で初めて登場したものはいっぱいあった。大はツタヤもユニクロから、サブカルまで、その世代で始まったものは多い。これはある意味では就職難のもたらしたものかもしれない。同時代人の求めるものを提供すれば、それなりの市場が創出できたので、既存の定番ビジネス以外の選択肢は多かったといえる。
私も就職活動はせずに、レコードを輸入して販売するとかアルバイトをして好きなことをしていた。食い扶持を探すのは職安に行って、そこにある求人のどれかを選ぶだけで、自分の将来を考えたり人生設計とかとは無縁だった。
その時代はいろんな雑誌が湧きあがってくる時代でもあって、人々がいろんなことが試行できたのは、サラリーマンのような定職にはつかずに流動的な人々が同世代人に多く居て、呼びかければ関心を持った人を集めることが容易にできたからだろうと思う。一旦サラリーマンになった人でも、一生会社の椅子にしがみつくのではなく、何か面白いことがあったら会社を飛び出してやろうと狙っていた人は多かったし、会社の側もそういう若者にはチャレンジのテーマを与えていた。要するに組織の内に居ても外と連携でも、自分たちの創意工夫で何かを始めることはできる時代であった。
今はかえって大企業の定番のビジネスに依存して生涯企業人として安泰に暮らそうというサラリーマンの夢が怪しくなりつつある。それは内需が人口減で縮み続けていることと、海外に向けたビジネスも、今までの大企業の純血主義ではなく、現地採用とかグローバルな人事というものが必要になってきたらからだ。
減り続ける安定した大企業や官公庁という狭い門に向けた就活をしている学生さんたちが可哀そうなのは、かつての就職難の時代のような自由な雰囲気がなくなったことである。その理由は少なくなった学生さん達が日本の消費者層として社会に大きなインパクトを与えないからである。
つまり人が増えれば、その人たちが必要なモノやコトを提供するビジネスは自然に生まれてくると考えられる。逆に言えば市場が小さいのに無理やり新しいビジネスモデルをヒネりだすようなことの方が成功の可能性が低いのではないか。
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