投稿日: Sep 07, 2015 2:22:18 AM
Wikipediaの日本語だが、ものみの塔とかモルモン教とかを見ると、非常に簡素な記述しかない。いずれも19世紀の中頃から活動していて、今では世界的な宗教団体なので、書くことはいくらでもあるはずだが、Wikipediaのような共同編集には向かないテーマなのであろう。組織の沿革のような客観的事実を書くには問題は起こらないが、教義のような信仰面の特徴というのは、外部の人が書くと組織側から何らか言われるだろうし、組織側が書くと客観性のない解説になってしまうからだ。
20年前の人々がネットサーフィンという語を作ったが、今でもネットで便利に安直にできることといえばテーマの表面をさっと撫でることぐらいで、真面目に考え出すとネットの中から意義のあるものを見つけ出すのは容易なことではなく、むしろ偶然に見つかった情報だけで知見をえたようなつもりになるのは危ういなあと思わされることがよくある。
以前書いたがオーディオアンプの製作関連で検索するとICアンプよりは真空管アンプの方がよっぽど熱く語られてはいるが、実際の今日の世の中のほとんどのアンプはICであって、真空管アンプは希少な存在なのである。
こんな調子で冒頭の宗教のようなテーマの書き込みがされていったら、情報量が異常に増えて、かつ殆ど参照できないような状態になってしまうだろう。だからWikipedia は限定的な書き方しかしないようになったのであろう。
第2次大戦、あるいは太平洋戦争といってもいいが、それらは日本にとってどんなものであったのか、といったテーマも日本では神学論争のようになっていて、私が見てきた戦後ウン十年を経ても、全然まとまりはないように見える。
過去の戦争に関する認識は外交上のテーマにもなるので、国立公文書館などでも開示されて、外国と無用な摩擦を起こさないようにしてきた。しかし文書は証拠として残ってはいても、それをどのように解釈するのかというのは定まらないので、それで共通認識に至るわけではないが、共通の基盤の上で考えることにはなる。そういったやり方で過去には収まっていた問題も、時がたつと再燃することがある。それは残念なことに共通理解になった資料よりもあやふやな資料を引っ張り出してくることによるものが多い。
ネットで騒いでいるようなものは、多くはちゃんとした資料を見る前に、風評的な資料や伝聞によって想像(妄想)によって書かれているケースがある。それはネットの書き込みは論文のような形式をとっているわけでもなく、誰か第3者が査読しているわけでもないからだ。そのような情報の増加で集合知はエントロピーが増大してしまった。
Googleはサイトやページの評価を自動的にすることで、検索結果には信頼性の高い情報が先に出るように努力してきたわけだが、それもやはり神学論争的なテーマには歯がたたないようである。