投稿日: Jan 03, 2015 2:50:20 AM
コンピュータは今日では仕事のパートナーとなりつつあるが、人間にとってコンピュータが友人たりえる日が来るのだろうか?仕事に関してはコンピュータが人の主人となって、人間にああしろこうしろと指示するようになりつつある。株の取引であろうと、機械の操作であろうと、知の集積とか処理については人はコンピュータには敵わなくなっている。
しかし人の趣味ではどうであろうか? チェスや将棋はコンピュータの方が強くなってしまったが、だからといってコンピュータと対戦したい人が増えるであろうか? 大方の人にとっては、ほぼ負けると決まっているコンピュータと対戦して何が面白いのか?と思うのではないだろうか。
チェス・将棋・囲碁でもスポーツなど、最終的には勝ったか負けたかという世界でも、対戦相手という人格があってこそ対戦する意欲が湧くのではないか。馬車が自動車と競争をしなくなったように。
つまりコンピュータが人格のようなものを感じるようになれるかどうかという問題がある。siriに向かって自分が癌であることを告白すると、うまく慰めてくれるというアプリは作れるかもしれない。しかしそれがどれだけ口当たりのよい、場をわきまえた応答をしたとしても、リアルな友人や知人と会話しているような気はしないだろう。友人や知人とは、家族に次いで、ある部分では家族よりも自分のことを知っている人たちで、そういう人たちが知ったり感じたものの総和がその人の人格というものだろう。つまりある人の人格とは、その人をとりまく人々の間に出来るともいえるだろう。
だから知識ベースの処理でコンピュータがリップサービスをアルゴリズム化して、癌で死にそうになった時に慰めてくれても役に立たないのではないかと思う。などと考えていたら、初夢を見た。
コンピュータは部分的には医師とか裁判官のようなことはできそうだ。しかしこの場合も人格は伴わない。もしコンピュータにも人格のようなものをもたせようとすると、倫理とか宗教というものが避けて通れなくなるだろう。これらは人間には完全には解析できないものなので、やはり完全なアルゴリズム化はできないだろう。最初は過去に人間が知り得た程度の宗教書・聖書などをコンピュータ化して、時と場合に応じて人間に解りやすく解説するようなものはできるかもしれない。
それは人口知能宗教者である。機械に霊は宿らないので、彼に出来ることは宗教の原点に照らし合わせて、宗教に名を借りた権力支配や詐欺の類を告発することである、というようなものだった。
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