投稿日: May 30, 2010 10:30:4 PM
自分はいつまでも革新的でありたいと願う方へ
TVのプライムタイムの視聴率が過去のピーク時に比べてどのくらい減ったのかしらないが、ずいぶん前に半減していた。その理由は家庭内で「見て」時間つぶしをするデバイスやメディアが増えたからである。今でも家庭内でTVがついている時間は長いが、食卓ではゲームをしたりケータイやPCをしたり、またこれからはiPodのようなものをいじっているように、人の情報行動は次第に分散するようになった。TVの側はTV復権をかけてデジタル多機能を訴えるかもしれないが、そこでTVとタイアップするIT陣はまだTVにしがみついている大衆をデジタル情報サービスに引き込もうと考えているだろう。
以前、出版の特徴は多様性にあることを、帝王はいらない 生態系バランスが重要 で書いたが、これは電子出版に拡大して考えられると同時に、あらゆる情報手段にもあてはまるものである。生物の多様性はバクテリアからヒトまでの大小さまざまな生態系のバランスによって保たれているように、情報手段の多様性は社会の健全さと結びついている。今まで表面化しにくかったバクテリアや微生物にあたるところがソーシャルメ ディアによって開放されつつある。だからソーシャルメディアだけが発達して社会がよくなるというものではなく、多様性の上に健全な発達があることを前提に今後のメディア事業を考えるべきである。
しかしかつてTVがニュースでも娯楽でも王者のように考えられたように、PCの普及期にはPCがTVを飲み込むか、みたいな議論がされたり、ゲーム機が高度化するとそこで何でもできるような話になったり、ケータイが発達すると、もう他のデバイスは滅びるといわれたり、twitterがあれば他の情報ソースはいらないとか、また今iPad様のものが情報の世界を制する、みたいな極論が出てくる。こういった極論はその時点では前衛的革新的未来的に思われるかもしれないが、単に何かに夢中になりすぎて視野が狭くなっただけである。
夢中になって新デバイスなどの今までにない利活用法を発見することは意味があるし、その価値は人々と共有すべきであるが、「ミイラとりがミイラになる」ことには気をつけなければならない。つまりその新デバイスとは違うものもどこかで開発されていて、そこには別の可能性があることを見落としてしまいがちだからだ。携帯ゲーム機やケータイ電話に夢中になっていると数センチ角の表示エリアの表現が当たり前に思ってしまう。iPadの登場時にはその表示能力の高さから考えて、CG映画やデジタルサイネージのクオリティのものをもってくるのがいいと判断してデモを作っていた人もいる。このような別の視点をもてないと、折角モバイルな世界でのアプリに長けていても新デバイスに移行できないかもしれない。
ものの考え方でも同じで、twitterで自分の気に入ったつぶやきばかりを集めていると、結局は自分の殻に閉じこもってしまうようなことになるので、個人的には異なる複数メディアでの体験を混ぜ込んでおくのがバランスのとれた生活になる。意図的にソーシャルグラフからの離脱をするほうが前衛的革新的未来的な生き方を通せるだろう。