投稿日: Jan 08, 2014 1:35:34 AM
どれだけ根拠を示せるかが問われる
火事と喧嘩が江戸の華なら、ネットの華は炎上だろう。最近もまた「赤ちゃんの泣き声」がどうのこうのと炎上していたが、いつまでたっても人って進歩しないものであると思う。ソーシャルメディアの利用も10年近くになるが、利用者が広がるとともにコンテンツの劣化が起こって、QAサイトも次第に役立たなくなってくる。当然ながら誰でも情報発信手段が手に入ったことによる、貴重な情報の量は増えていくのだが、数ではそれ以上に無駄な情報が増えていって、人手でよい情報を選り分けることは困難さが増している。これは以前からわかっていたことで、検索エンジンは独自の情報評価を行って、意味のありそうな情報を探す助けにはなってきた。しかしSNSのような別の情報系では情報評価は別問題でうまい方法がない。
おそらくネットを上手に使って今までは出来なかった研究調査をする人たちは生まれてきたのだろうが、その人たちは以前は図書館とか書店に通っていた人たちかもしれない。だから社会全体で見るとソーシャルメディアが生まれても、日常生活の利便性向上にはなっても、民主主義がよくなるかとかの問題レベルではほぼ何の進歩もなかったともいえる。ネット上でも外交・防衛・体制・教育・文化・その他いろんな書き込みがされても、紙媒体ではありえなかったような都市伝説めいたトンデモ説が出てきたり、よくても野次馬の域を出ず、声高に何かを叫んでいるように見えても空回りしている。
それは、Wikipediaの充実度合いからみてとれることである。同じ項目でも英語と日本語でこれほど記述の量や質が違うものかと思わされることがあるが、もしネット上で真剣に外交問題の議論がされていたならば、その論拠となる資料が山ほどWikipediaに載るはずだからである。
欧米の文化圏では何かにつけ議論が盛んだが、お互いに「その根拠を示せ」ということになって、アーカイブとか情報公開が促進されてきた。そういった延長にWikipediaがあるから、議論の多いテーマは厚みが増していくことになる。
では日本はなぜ空回りの議論をしているのだろう。それはひょっとするとお祭り騒ぎがで盛り上がりたいという感性というか一過性の連帯・対立という「伝統的」行事の延長かもしれない。あるいは、酒に酔ってハイになるとか向精神性薬の代わりになっているのかもしれない。
こういった大衆の感情的な動向がどうなっているかはビッグデータ時代ではセンチメント分析として進んでいるのだが、それとマーケティングとか議論というロジックの必要なものは別問題なのである。Wikipediaに限る必要はないが、情報のアーカイブは整備しないことには空回りは抑えられないだろう。