投稿日: Dec 25, 2013 12:46:26 AM
技術革新の幻想
1980年代後半にパソコン通信に乗り出して以来、インターネットになってからニューズグループ、Webの時代にオーカット、ムーバルタイプ、その後blogやSNSというものに、ほぼ毎日チョロチョロ何かを書くようなことを20年は続けている。こういう個人のネットでのチョロチョロ書き込みが何か直接の利益をもたらしたかどうかを振り返ると、やってもやらなくっても同じだろうな、というのが結論である。そのことは薄々は気づいていたので、ソーシャルメディアに対して過大な幻想を抱くこともなかった。
記事『ずり下がるネットビジネス』で書いたようにSNSもある程度普及すると伸び悩みになり、次の革新には向かっていないように思える。要するに個人から見て参入の障壁がどんどん下がっていったのがこの種のメディアの発展であったわけで、そこから質的な新たな展開があるわけではなかったと思う。
もう少し遡ると、紙メディア時代の技術革新も似たようなものであった。パソコン通信が現れだした1980年代にDTPが登場し、最初のうちはそれまでタイプライタで制作していたニューズレターがMac+LaserWriterによって写植モドキのクオリティで作れるようになった。企業内ではWordProcessorを使っていた文書がパソコンでできるようになった。PageMakerの初期の応用分野はそんなところだった。この時代は10年ほど続いて、その後はWeb化していった。だからといってそれらで作られる内容がそれほど変わったわけではなかった。
SNS時代になって、双方向的なコミュニケーションがやりやすくなったが、それは技術的に可能になったというだけで、そのままではそれらを使う人たちの意識を変えることにはならない。昨今のSNS疲れという現象は、SNSを使い慣れたところでコミュニケーションの質が変わったことを実感できないというところからもくるのだろう。
コミュニケーション(あるいはその逆の面であるディスコミュニケーション=ヘイトスピーチなど)のモードが変わるには技術革新の速度の2桁ほど長い時間がかかるのかもしれない。マウスの発明者のエンゲルベルトが世の中の動きが遅いのを嘆いていたことがあったが、一部の天才的な技術開発側からするといつもそのような苛立ちがあるのだろう。
そんな技術革新に幻想を抱いて、それに無理やり現実社会を合わせようという性急さが人類に不幸をもたらした例は多いと思う。この点では原爆投下からアラブの春まで共通するものがある。身近な話題では設備投資先行で失敗したようなことはどこでも経験があるだろう。
では技術の進展をどのような心積もりで見守っていけばよいのだろう。昔、オフコンを導入しても全機能を使いこなすことができなくて、必要な部分だけをパソコンの処理にしたら、それで用は足りたことがあった。自分の願望と自分の能力がマッチしていなかったということである。
SNSで反応が得られるとしても、それは自分の身の丈相応のものでしかないと思えばよいのだろう。