投稿日: Jun 02, 2014 12:12:30 AM
その裏に潜むもの
何年か前に前職の組織の一部をベンチャー化しようとして、新規ビジネスのネタを用意したり、採用面でもベンチャーに向きそうな人を選んでいくことをしたのだが、そういう立ち上がり時期の不採算事業を支え続けることは難しかった。こういうことはやはりトップが真剣に取り組んで創意工夫して引っ張っていかなければ推進できないもので、民主的な話し合いの場ではリスクは避けることになってしまう。
もしそれでもみんなが困難を承知でもやろうと言い出せば別である。そうなるには「みんな」の資質が大きな問題で、出勤して机の前に座っていれば給料がもらえるという意識の一般のサラリーマン気質ではそうはならないだろう。それは採用の面接をしていて感じたことで、日本にはそういう困難に立ち向かう若者を集めるのはもう難しいのではないかと思った。要するに、「みんな頑張ってベンチャーやろうと」という機運は感じられないのである。もしそういう旗振りを社内でしていけば、きっとブラック企業と呼ばれることになるだろう。日本でも時代を動かしたような若い企業としてアスキーやリクルートが活躍した時期があって、そこでは自分で仕事を見つけ出して行動する原理であったが、それらも今の就労意識なら「過大な負荷・ストレス」「長時間勤務」などでブラック企業だろう。
「マイルドヤンキー」というのはよくは知らないが、ハングリーで自律な精神は感じられず、ただ時代に流されていく生き方のように思える。想像では昔の若者の「青年は荒野を目指す」とは真逆な感じで、例えば「神田川」ですら日常の「小さな幸せ」に留まっていてはいけないという青年の歌であったのに、今はむしろなにより身近な「小さな幸せ」に浸っていたいようになっているのではないか。
しかし、自分の小さな平安だけを意識していては社会性というのが欠落し、それが大きな不幸を呼ぶことがある。戦争というのがその代表である。日本の若者を「マイルドヤンキー」と括ったのは消費面での話であろうが、マーケティング面で「マイルドヤンキーのみなさ~ん!」というトーンが増大していくと、本来ならば多くの人に直視してもらいたい社会的な課題が、ますますぼやけていくのではないかと危惧するし、シリコンバレーのように自己実現を目指して世界中から寄り集まった組織に日本は対抗しようがなくなるのではないか。
人々の「小さな平安」を守る必要はあるが、同時に社会を良くするという課題も天秤にかけておかなければ自己中心ばかりの歪んだ社会になってしまう。