投稿日: Jul 05, 2014 2:25:55 AM
私の聴いている音楽で一番多いのは1960年代のアメリカ黒人大衆音楽なのだが、当時日本で聞けたものから源流をさかのぼっていき、その元になる音楽は、どの州のどの町で、どういう人たちがやっていたのか、というのを辿ることをこの50年ほど行っている。音楽は一個人の創造という要素もあるにはあるのだが、様式とか演奏形態などを含めて考えると、全く個人だけに依存しているものはなく、特に人前でやって見せるクラブ・ライブとかの音楽は、基本的にはその場の音楽文化を継承している。
だからレコードの収集も、気に入った曲があったら、その源流を辿れば、似たような音楽がいろいろと発掘できることになる。そのようにしてアメリカ南部の地図を見ながら、各州の中の拠点となる町々の音楽事情を探って、未知のレコードと対面することができる。アメリカには各州に音楽産業が盛んな都市があるが、それらの音楽はLPやCDの時代になってもかなりの確率で再発売されている。しかしそれ以外の市程度のところでもインディーズ的なレコード制作がされていた。1レーベルあたり10数種のシングルを出して終わってしまったところが山ほどあり、それらも今日では半分くらいは明らかになりつつある。
1960年代でも知財権のルールは出来上がっていたが、インディーズはそれとは関係なくレコードを出していて、記録が残っていない場合も多い。それは冒頭の地域の音楽文化としての個人の創造性の曖昧さがあるからだ。同姓同名とか同題異曲、異題同曲、マッシュアップ(ここがマッシュアップの語源でもある)も山ほどある。これは権利の設定という点では難しい問題もあるが、権利が先にたって音楽を規制するようになっては主客転倒で、曖昧であったが故にどっちがオリジナルかわからない似た曲が多く残されたということでもある。
1960年代でも音楽に関する盗った盗られたなどの権利問題のもめ事は多くあり、それらを考慮に入れて比較的経営規模の大きい会社のレコードには音楽出版社、作詞作曲などのクレジット、音楽家・演奏家などがレーベルに記されている。しかしそれは殆どレコード会社に都合の良いように考えられたもので、レコード会社の社長やプロデューサが共著者になっていて、印税の分け前にあずかるようなものが多い。
最初から売れるか売れないかわからない曲を、半ば賭けで市場に出すわけだからリスクは高く、それを埋め合わせるためにも、しっかり回収できるように考えている。
つまり無名のアーチストはあくまでレコード会社にお願いして「出してもらっている」立場なので、自作の曲でも社長が共著になることをOKするであろうし、またプロデューサの場合は無名の人から指導料をとるわけにはいかないから成果報酬で共著にすることもあろう。要するに著作権を純粋に人格権として取り組んでいるのではなく、「投資」とか「投機」的な扱いをしているのだろう。
それでも権利の使い方として他人の活動を規制するために使うのではなく、儲けを企んでいるのはアメリカらしい。