投稿日: Jul 30, 2014 12:54:10 AM
私は高校の時は、朝に新聞に目を通して気になる記事に印をつけ、夜に切り取ってスクラップブックに貼って、何とか理解をしようとしていた。おそらく半分くらいしかわからなかったような気がする。アフリカでは毎週どこかで新しい国が独立宣言をしていた。アフリカの国名とか位置はいまでも殆ど覚えている。そんなことをするうちに、学校の授業の勉強には興味が失せてしまって、登校しても図書館に籠って勝手な本を読むような暮らしになった。1日1冊のペースで読んでいた時もあった。しかし読書家とか本の虫のようにはならなかった。時代は寺山修二の「書を捨てて街に出よう」となっていたからであった。
その時代の人は、「何でも見てやろう」の小田実や、後に路上観察学会を始めた赤瀬川原平のように、原理主義とは反対の実存主義的な指向が強く、書籍を辿って本質に迫ろうという傾向ではなかったが、出版は好調な時代であった。後に「知の……」といった本の虫的な教養主義が日本に復古していったのは残念であった。そういうところには夢も希望もめばえないで、実生活と思索が乖離していくばかりになる。今日の日本の閉塞にもつながっている気がする。
それはともかく、私も図書館を捨てていろいろな職業のアルバイトにいそしんだ。大学時代には50種くらいのアルバイトをした。その経験は今考えると人生で最も役にたったものといえる。
逆に新聞は中高生くらいの頃はほどよい知的刺激にはなるにしても、人生全体を振り返って考えるとあまり役には立たなかった。新聞には限られたことしかかかれていないからで、それを現代であるとか世界の真実の姿であると思ってしまうと、かえって害がある。日本のような大新聞は戦前に大衆操作の道具として使われることで発達したものだから当然と言えば当然である。ちなみに欧米の新聞は発行部数が日本よりも1ケタ低い新聞が複数あるというように言論の多様を支えるものとして存在する。欧米のネットメディア・ネットジャーナリズムはその延長上にある。
日本でも県ごとにある地方新聞は部数は欧米並みかもしれないが、これも戦時下に各県1紙に集約されて情報管制された名残であるので、とても言論の多様化を支えているとはいえない。
このように日本の新聞の中身をなんだかんだと言えるようになったのは、新聞以外のメディアが発達して、新聞の評価とか吟味を可能にしたからである。それでは新聞がダメでネットのメディアなどが真実を伝えるようになるのかというと、それも怪しい。もすでにネット上の言説は紙の上の言説以上に怪しさで満ちている。ただ多様性という点ではネットの方が明らかに優位であり、paper.liのようなのを使ってネット上の情報を日々まとめれば、欧米の言論の多様性のようなものを日本でも興すことはできるように思える。
また「Naverまとめ」はあまり評価はしていないのだが、ひとつのテーマにひもづけていろんな見解を寄せ集めるのもネットではやりやすい。つまりマスコミ時代のようにメディアのブランドが正面にでるのではなく、テーマやトピックスが前面に出て人々に問いかけるスタイルがネットで起こってきている。ネットメディアでPVを稼ごうというのはマスコミの後追い的な発想なのではないだろうか。
個人の立場としては、SNSは冒頭のスクラップブックのように使えるもので、人がそのような使い方をしていけば、ネット上の問いかけに対して生活者の受け止め方というのも分析可能になる。これからの課題は一方的にネットメディアを起こすことよりも、発信=問いかけ と 受信=ひっかかり・意見 をペアにして分析できることであるのかもしれない。
Top → Articles デジタルメディアビジネスの記事 過去記事→Archive