投稿日: Jul 26, 2011 10:42:32 PM
聞く耳を持たなくなる危うさを感じる方へ
TechWaveに「武田隆 ソーシャルメディア進化論」のことが載っていた。この本は読んでいないが、記事を読む限り湯川氏は仮想コミュニティとソーシャルを同じもののように言っているし、本の紹介でも、「インターネットの心あたたまる関係」と「経済効果」を両立しうる施策とか、ソーシャルメディアを活用したマーケティング・リサーチの最新手法、インターネットによって世界はひとつになりつつある、などの文言を見ると、手がつけられない絶望的なものを感じる。しかしもう暴走は止められない。何を言ってもソーシャルメディアに対する過剰な期待が理性を失わせて、無駄な試みを沢山してしまうとか、これから10年ほどは無茶苦茶なソーシャルメディア論に振り回されるかもしれない。
ソーシャルメディアは人のあらゆる活動にとって本質的なものであるが故に、人がそう簡単には操作できないものであろう。だからソーシャルメディアで何かを解決することはすぐにはできず、当事者たちの意見を煮詰めるような、いわゆる「見える化」が関の山であろう。 つまり阪神のファンサイトと巨人のファンサイトは一緒になることはないように、対立の構図をはっきりさせるもので、それが結局は相互理解にもつながるという点ではマイナスではなくプラスである。オバマは先手を打ってソーシャルメディアで大統領になったが、昨年の民主党はティーパーティーがソーシャルメディアで反撃したために苦戦を強いられた。リアル社会が戦いの場であるならば、ソーシャルメディアもその延長上の戦いの場になるわけで、サラ・ペイリンのfacebookでの挑発がアリゾナ州の銃狙撃事件の背景とも言われた所以である。
おそらく湯川氏武田氏のイメージするソーシャルメディアはそのようなホットなものではなく、日本のmixiの延長のようなものなのだろうが、それではアメリカのソーシャルメディアは理解できないままになってしまう。私はアメリカという国の不寛容さがソーシャルメディアを作り出したと思っている。だからソーシャルメディアが対立を鮮明にするとともに、コラボレーション(元来は敵と手を組むことの意味 ex国連など)のきっかけとなる。つまり意見の会わない人と組もうというくらいの度量がないと、単なる仲良しクラブのソーシャルになって、社会的には何も役に立たないだろう。
アメリカは国土が広いので気に入らない人と混ざり合って住むことはせず、ユタ州にモルモン教徒が旅して行ったように、宗教と地域性というのも関連している。アーミッシュのように自分たち独自のコミューンを作って住むことすらできる。これらはすべて不寛容の結果である。アメリカは不寛容を押し通せるのである。しかし今は移住してコミューンを作るよりはソーシャルメディアで自分を純粋化する方向にあるのだろう。だから今のソーシャルメディアは排他的にならざるをえない。コカコーラの商品自体は人種の区別なく飲まれているとは思うが、広告戦略においては対象層ごとに異なるコンセプト、コピー、グラフィックの使い方をしていた。この場合は対象層ごとにソーシャルも異なるので、同じやり方ができるだろう。
ところが日本の企業にとっては、なるべく多くの人と穏健に付き合いたいためにマーケティングをする場合が多いだろうから、それにソーシャルメディアが役立つかどうかまだわからない。むしろ尖がったファンと付き合うようなビジネスなら不寛容の国で発達したソーシャルメディアは役立つだろう。そうでなければ日本がそれらとは別な協調的なソーシャルメディアを発明しなければならない。日本の農業に役立つようなメディアを考えるとそのようなものができるかもしれない。いずれにせよ、ソーシャルと名のつくものは、それぞれの現実世界を手本としてモデル化されるので、アメリカのものをそのまま真似して大騒ぎをするのは馬鹿げている。