投稿日: Feb 07, 2014 12:57:4 AM
マスコミ不信
佐村河内守氏の変人ぶりが話題になっているが、創造的な活動をする人は、多かれ少なかれ妄想狂でもあり、社会生活に支障をきたしていることはよくある。ただそれがマスコミネタになるかどうかなのだが、佐村河内守氏はメジャーマスコミデビューしてしまったので、いろいろいわれるようになったのだろう。
こういう変人に関わりあいたくないなら、クリエイティブの世界には首を突っ込まない方がよい。
外から与えられた一定のルーチンの中でのみ思考しているサラリーマンがクリエイティブに向いていないのは当然として、作曲の技量や才能があるだけでも作品を仕立てることはできない。これは絵なら描画がうまいことと作品のインパクトが出るかどうかとは別であったり、楽器が上手でもスタジオミュージシャンしか勤まらないとか、似たことは多くあって、コンテンツというのはもう一つ別に、『妄想・着想→構想・構築』というまとめ作業というクリエイティブが必要になる。
佐村河内守氏は構想と仕上がりのチェックをしていたわけである。
週刊誌とかは読んでいないのだが、推測すると佐村河内守氏と作曲家さんのコンビは、ある時までうまく共同制作をしていたようだが、佐村河内守氏の着想の方向が、義手の少女ヴァイオリニストに目をつけたり、大震災の被災者へ向けたレクイエム、とかマスコミが飛びつくようなテーマになっていったことが作曲家さんとの不和の元ではないかと思う。
自身も、「全聾の作曲家」と称していたように、嘘というよりも劇場型とでもいうか、演じ切ることでイマジネーションを膨らましたのだろう。
こういう大衆にわかりやすい泣ける話は、テーマ設定としては浅いのだが、波及はしやすいことは、かつて『一杯のかけそば』でも実証済だ。その作者は全国各地で詐欺を働くことになってしまった。
妄想を演じることを一般社会で行えば詐欺師のようなもので、詐欺師も本人に会っていると悪い人には思えないように、本人自体がなりきっていて2重人格的な様相を持つことが多い。しかし矛盾を抱えていると破たんし、他人に損害を与えると刑事事件となる。しかしクリエイティブでは嘘でも誰にも損害を与えないので、こういう人格でも通用するのだが、佐村河内守氏に関しては作曲家さんの方がもうやばい限界であると判断して会見したのであろう。
妄想と、クリエイトと、社会との軋轢、という関係は昔からそうなのだが、そこにマスコミが割って入って、虚構を増幅してしまったのが今回の顛末だろう。本来ならジャーナリズムは冷静に取材して真実を確かめたうえで番組を作らなければならないが、受けを狙うがためにワンサイドな視点でしか番組を作らなかったことは、ジャーナリズムとしては失格である。