投稿日: Oct 19, 2011 11:21:51 PM
今の業態にアンバランスさを感じる方へ
私は日刊新聞をとっているし、おそらく今後もとると思うが、トータルに価値を考え直すことも必要と思う。
新聞の役割や機能は東北大震災の折でも発揮されていて、住民にとっては新聞があると無いとでは生活上の安心感に大きな違いがあったと思える。安心感というのは毎日定期的に届けられることにあり、自分のところが情報の孤島にはなりたくないことからくる。実際には情報は十分にゆきわたらないもので、稲藁のセシウム問題など、国から県、地方自治体に来ていた通達が、生活者のところまで届かなかった例である。そういうことは完全に防げないが、新聞をとっていればコモンな情報は定期的にアップデートできる。
電子媒体は災害時には電気がきているかどうかが問題になるし、無線のケータイ電話やインターネットも中継ポイントが障害を受けていてはつながらない。電気がきていたとしても、ラジオやテレビなど電波媒体では重要なことを聞き逃したかどうかがわからない。情報伝達の性質としてはリアルタイム、サイマルという特性の裏返しとして垂れ流し型とでも言おうか、スポーツならゴールとか優勝決定などいつ起こるかわからない瞬間のために見張っていなければならないメディアである。だから新聞と電波媒体は補完しつつ同居できた。
新聞はジャーナリズムの元祖ではないが、マスコミの元祖であって、その後、週刊誌、ラジオ、テレビ、ネットという不特定多数相手のメディアが増えていって、それにつれて新聞でなければならない独自要素は削ぎとられていった。今日の独自特性は定期更新のニュース配布が手元に残っていることである。しかし各メディアのプロセスを考えると、取材・編集はどのメディアでも同じようなものであり、制作から配布・保存が異なる。
メディアのデジタル化は単にデジタルになったコンテンツをコンピュータで編集するというだけではなく、取材から受け手の利用の仕方まで全プロセスにわたって自動化が進むが、それにつれて印刷物である新聞のハンディは大きくなってしまう。Webでは一度発行した記事の訂正もloginして行え、ネットメディアはすべてのコントロールを自動化できるので出社しなくて発行でき、コストダウンとリアルタイム配信の両面で紙は太刀打ちできない。
紙媒体の宿命として、大新聞なら一日に何百万部、県紙でも万の単位の配送の課題がある。大量印刷は機械でできるが、それ以降は朝夕の配達のために各地区に販売店が置かれ、配達に必要な人や道具を揃え、販売店へのトラック輸送を短期間に一斉にしなければならない。こういった膨大な作業の結果にかかわらず、読者はアベレージで新聞を10数分しか読まない。逆に10数分でざっと見れるところに新聞のよさがあるともいわれるが、そのために専門の配送メカニズムを維持するのはアンバランスなのではないか?
世の中には配布しなければならない印刷物はいっぱいあるが、それらは混載・相乗りによってコストを下げている。たまたま今のところWeb新聞が10分では全体を見渡せないから紙の新聞の優位性は保たれているが、きっと10分で個別の読者にとって必要な、この1日の世界の動きが定期的にわかるメディアはネット上で作れるだろう。その時に新聞が生き延びられ、今以上の価値が発揮できるような新たなプロセスを開発しないと、大きな負荷を抱えたままではやっていけないはずだ。