投稿日: Sep 18, 2013 1:34:39 AM
メディアのカタチは人のリテラシーに沿って変わる
出版とかジャーナリズムは専門職としての執筆者が居て、世の中の事象をその人たちが解釈して文章化するものであった。震災があると被害状況を取材して原稿にするということはテレビのような視覚メディアでも行われている。そこには「講釈師、見てきたような嘘をつき」という状況があり、実際には取材していない「資料映像」とナレーションで捏造に近いことも日常的に行われている。これは映像作りの伝統でもあろう。
太平洋戦争中に映画監督の牧野省三は外地の従軍カメラマンとなって戦地の様子を映像化していたが、軍靴が泥水を跳ね上げながら進んでいく様子は千葉県で撮って編集であわせていたという。その方がよい流れの映像になるからだといっていた。
新聞雑誌などの文字メディアと違って、ラジオ・テレビでは実況のようなことができるので、現場に居合わせた当事者を取材して電波に乗せるということも可能になったが、そういった当事者の情報の切り貼りだけでまとまった表現になるのかどうかは疑問である。だから誰かが解説をしなければならない。ジャーナリストというのは当事者でもなければ、表現者でもないのだが、当事者のフリをしつつ自分のいいたいことを表現しているともいえる。
ともかくマスメディアに総称されるプロの世界とは、当事者よりも勝手に代理人が作り出した情報を扱うものであり、その代理人はいろいろなスキルをもって、ドキュメンタリーに脚色をほどこしている。
私が少年の頃は日本人の特性は、はにかみ屋といわれ、街頭でマスコミの人が取材マイクを持って立っていると、通行人は避けて通るとか、マイクを向けられてもうまくしゃべれない人がいた。確かにそれでは当事者の情報のままを伝達することは不可能で編集が必要になる。しかし今日では一般人も相当応対ができるようになっているし、自分で写真や映像も撮っている。マスコミはお礼を支払って素人の素材を集めて社に帰って編集ということになる。
街頭で素人にマイクを向けると何時までもしゃべり続けてマスコミ側が困るとか、マスコミに取材される側ももっと話を聞いてもらいたいというように、日本人のメディア参画意識も変わってきた。
アメリカではこういった市民のメディア参画の延長上に、Webのニュースに対して多くの有益なコメントが寄せられるようなことが起こったと考えられる。9.11の際もマスコミには載らなかった多くの個人的な体験がニュースの下に膨大に書き込まれた。それらは生死とか信仰とか深い考察がされて本にしてもよいほど真摯でしっかりした内容だったので感心した記憶がある。
こういった経験を経て、既存の新聞社ではないHuffPostのような双方向メディアがでてきたのであるし、それらは今後もっともっと当事者が発言する機会を増やす方向で進化していくだろう。つまりメディアは代理人のものではなくリアルな方向に行くはずである。
ところが日本では9.11のコメントのような風にはならず、きっと「イスラム教徒氏ね!」みたいなコメントで埋め尽くされてしまうだろう。韓国や日本で市民ジャーナリズムが失敗したのはWebメディアのせいではなく、一般人が同じベクトルで考察ができないからだろう。メディアビジネスとしては侃侃諤諤になった方が盛り上がって面白いし、アクセスが多いと広告収入も上がるから、炎上万歳なのだろうが、しかしメディアのソーシャルな役割を考えれば、共通の課題に向かう当事者の多くベクトルを合わせて考察を深化させるためのメディアというのも必要である。だがこの方が遅れている。