投稿日: Apr 22, 2014 1:9:37 AM
デジタルコンテンツに欠けているもの
ペイテレビでも電子書籍でも有料コンテンツのビジネスを模索する人は多くいるが、デジタルの場合のマーケティングでは、アナログよりも必ずしも進んでいるとはいえない。それはコンテンツを認知してもらう機会が必ずしも広がっているとは思えないからである。ケータイ小説など若い特定の層に向けたコンテンツは、メールのやり取りなどのクチコミ効果に乗ってブレイクしたものがあるが、もっと広く社会的に見ると非常に局部的な現象にとどまっていて、どの年齢層でもクチコミ効果が発揮されるものにはなっていない。
電子書籍の安売りキャンペーンが行われているが、そこで人々がまとめ買いをしても、それが契機でその後にどのように売れていくシナリオを考えているのかよくわからない。それは、アナログの本ならば古本屋や図書館・図書室なども本のショールームのようなものであって、コンテンツのファンの醸成に役立っているのに相当する部分が、デジタルにはまだないからである。つまりデジタルコンテンツのビジネスは近視眼的な販促しかしておらず、人々の人生の中でそれがどのような役割を果たすものとして位置づけらえるかという長期戦略はあまりない。
よく新人賞を取った人のインタビューで、子供も頃からいっぱしの小説を読んでいて、しかもなぜ小学生がそんなマセた内容を読んだのかといえば、家に親の買った本がいっぱいあったからだった、という話がある。私も親が毎月、芸術新潮とアサヒカメラは欠かさずに買っていて、しかもそれらのバックナンバーが10年以上あるような家庭だったので、門前の小僧的には接していた。婆さんは茶道・華道をしていた。大学に入る際には美学という専攻を選んだのだが、進路を考えるとき、自分にとって何が価値あるものかを考えるのに、自分の育った環境というのは影響していたと思える。
本でもレコードでも、またお茶の間のラジオ・テレビでも、それらは世帯で共有するコンテンツであったわけだが、スマホ・タブレット・電子書籍端末はパーソナルな、しかも極プライベートな使われ方なので、それらが家族の他の者とのコミュニケーションに出てくることは少ない。日本の場合は第2次大戦後に日本語表記の変更があったために、戦前の本のほとんどは捨て去られてしまったが、今は日本中にBookOffができるくらいに本の余剰がある。そのおかげで本が売れないと嘆いている人もいるが、これは図書館を補っているという見方もできて、実は読者の離反を防いでいる役割があるともいえる。
文化の継承というのは人が意図的にしようと思ってもそのようにならないのは、親が子育てで思うようにいかないのと似ている。でも子供は親を見ながら成長するわけで、親の見ているデジタルコンテンツが子供にはわからないとすると、デジタルコンテンツは文化性が乏しいといえるかもしれない。