投稿日: Nov 26, 2011 12:48:54 AM
同じような議論の堂々巡りと思う方へ
オリンパスとか大王製紙のニュースを見ると、元々監査も雇われているだけなので仕方ないのだろうが、企業の監査というのはアテにならないことがわかる。小さな政府にして税金も減らすには、コンプライアンスとか企業のセルフガバナンスが重要になるのだが、それがどの程度実現可能かは、その国の民度に関わっている。民度が期待できない場合は、強権的専制的な政府が必要になる。世界的に見て民度が割りと高いのは、やはりヨーロッパかなと思われ、日本もアメリカももっと社会をよくしようと考える人が運動をしても、思ったほど効果が出ないのは民度の限界があるからだ。
一方エリートが優秀で民度は期待できない国は、国民を強引に引っ張っていくことができるので、一見すると合理的な政治ができる場合がある。例えば電子政府がうまく機能するとか、貿易収支が改善するとか、税金が有効に使われるなど、数値化された指標で見ると、みるみるよくなる場合がある。しかしそれはエリートの政策がうまくその時の条件に当てはまっていたからで、時代と共に諸条件は変わるから、将来ともうまくいくわけではない。つまりエリートの頑張りは国の長期的な推移の中でとらえると「カンフル」でしかないのかもしれない。カンフルで大ナタを振るった後は、民度がどれだけ働くかであろう。
日本は今いろいろな課題があるので、本当なら「カンフル」が必要な時代であろう。民間の英知も集めた行政刷新会議にその機能が期待されたが、既存の行政スタイルは官庁・外郭団体・受託企業・補助金・助成金などで強固に組み合わせられているので、肝心な産業ほどメスが入れにくいことが明らかになっている。テレビのニュースで国民が見て1分で分かるような無駄遣いしかメスが入れられていない。
日本の民度の独特なところは、「それはオカミにやるべきだ」という大きな政府論から抜けられないところで、これは飛鳥時代からの律令制度の残骸が残っている。これは東アジア特有の平等主義の原点で、今の中国の共産党もマルクスレーニン云々以前に律令制度の復活ではないかと思える。だが中国では伝統的に万民思想から抜け出して、単身別世界に出て行く華僑とか客家も多くいて、自律したビジネスを展開してきた。つまり中国人の民度はダブルスタンダードになっているといえる。
日本も国民の多数派は大きな政府から抜けられないのかもしれないが、国内市場では立ち行かなくなったビジネスは世界に向けて自律したガバナンスが必要なり、それに関わる人はヨーロッパ的な民度をもたなければならない。この両者をうまく成立されることがエリートの課題になるのだろう。これは企業内の改革にも通じる。