投稿日: Mar 13, 2014 12:24:18 AM
私は路上ミュージシャンには足を止める
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大阪から東京に来て、以前から聞いてはいたものの、肌で感じて再認識したことはいろいろあった。東京の落語の団体が日本芸術協会であるのもびっくりした。芸能では下にみられるということなのだろうか? 文化面のスペシャリストは芸術を標榜することが多いように思えた。しかし実際にお金をもらえるのは、専門的な審査によるのではなく、人をどれだけ笑わせてナンボというもののはずである。漫才も東京では真打とか階級があるのもびっくりした。ラジオのパーソナリティの人気が関西ほどでないのも意外だった。つまりこれらは開放的な閉鎖的かの差のように思えた。
関西はラジオ・テレビのパーソナリティの人気が高く、そういう人たちが笑わせてくれる要素は大で、ヘタなお笑いタレントよりもずっと師匠格であって、タレントもパソナリティになって一人前という印象だった。しかしパーソナリティというのはどのようにしてなるのかは決まっておらず、いろんな出身の人がいた。つまりオープンな世界である。パーソナリティは笑わせるだけでなく話をまとめるとかいろいろな能力が求められ、簡単にスキルを言い表せないものである。
一方階級があるものは、何らかの試験とか審査を経て認証されて上に行く。そういった世界を「芸術」という言葉で表していたのだろうか。その対照となる「芸能」はごった煮の有象無象の世界だということかもしれない。認証されて階級を上るとか受賞して箔をつけるというのは、クラッシックにはよくあるのだろう。一方でロックのような世界はアマチュアとプロの区別もあまりない。特にアメリカの黒人大衆音楽に関しては昼間働いていないミュージシャンは特異な例で、仕事を持ちながら夜に音楽をするのが普通である。
これらを比べると、プロパーな専門家としてのアーチストではなく働きながらするものは、誰でも参入ができて、したがってあまり形式的にはならないが、プロパーな専門家集団のようになると形式が定まってくるものといえそうだ。典型的には古典落語の場合は原作は文字で書けば同じものでも、演じる人による差というか芸の磨き方を鑑賞するもので、それはクラッシックにも通じる。ロックや黒人音楽も演じる人の持ち味がもっとも注目されるものの、形式を踏まえているかどうかは問題ではなく、むしろ形式を壊すとはハミ出す面白さというのも注目に値するものとなる。
実際にはロックもJazzもBluesも形式化していくことはあるが、それは固定ファンの世界に引きこもるようなもので、広がりは期待できない。むしろ常にいろいろな要素がクロスオーバーし合って形式という枠を固めないほうが、本人の持ち味が出せるのが、この種の音楽・芸能であるように思える。