投稿日: Sep 04, 2013 1:31:0 AM
みんな一緒、は文化の貧困
マーケティングの話をしだすと必ずといっていいほど、「F1層は…」とか男女と年齢でセグメント化する話になる。クライアントに提案するにしても、相手の偉い人は細かいことは気にしないだろうから、地域特性を若干加味するくらいで済んでしまっているばあいがある。生活者の日常の過ごし方から市場を推定できるのは角川アスキー総合研究所の提供する、「メディア&コンテンツ・サーベイ(Media & Contents Survey)」くらいかもしれない。この調査はネット利用者に限られるのでコンテンツ嗜好が捉えやすく、コンテンツ市場を考える場合には役立つものである。
しかし一般にはコンテンツ嗜好で市場をセグメント化することは日本では行われてこなかったかと思う。昔、履歴書で趣味の欄に、「読書、映画鑑賞」などと書く人がいたが、それだけ見ても何の判断もできない。やはりコンテンツのジャンルや対象を他人に言い表す言葉も慣習も日本には少なかったのだろう。要するに記事『急には変わらない日本人気質』でも書いた「みんな一緒」という意識があるので、自発的にセグメントを避ける文化だったのかもしれない。
アメリカなら白人か黒人かヒスパニックかジューかというようなセグメントは社会の最初からあり、同じコカコーラの雑誌広告でも白人向け雑誌と黒人向け雑誌ではメッセージや登場するセレブは異なる。また富裕層と貧困層の収入の差が開いていったので、これも不可避なセグメントである。文化的には北軍・南軍という差も未だに残っている。
日本は単一民族で総中流意識といわれた時代が長くあったので、冒頭のような単純セグメントをあてはめていたのだが、都市部の若者の多くは車をもたないといったライフスタイルが出てきたように、車好きは価値観の多様化の1つになってしまって、M1層云々ではマーケティングできなくなった。
コンテンツ市場は個人の価値観でセグメントするしかないのだが、その他のものも同様になりつつあるといえるだろう。
こういったセグメントを考えることは、文化のバリアがどのように存在しているのかを考えることでもあろう。白人/黒人というセグメントも実際は肌の色の問題ではなく、文化差として考えられる。しかもそれらは固い壁で囲まれているのではなく、お互いが刺激をしあう関係にあり、白人に無い要素/黒人に無い要素というのをお互いに少しづつ混ぜ合わせる匙加減がマーケティングの醍醐味でもある。