投稿日: Jul 07, 2014 12:44:1 AM
2000年頃に電子書籍端末という紙の本と同等の表示ができて持ち運びも紙本と同じ様に使える端末が数多く発表された。その後に電子ペーパーとかスマホ、タブレットなどの発達とか浮沈があって、電子書籍専用端末は急激な伸びはなかったものの、すべてのモバイルなデバイスが紙と似た表示をする方向に進んでいるともいえる。スマホも5インチ越えになって、文庫本電子書籍が違和感なく読めるようになっている。
実はこれは過去1000年の本の歴史や印刷の発達史を追体験しているものだと思う。電子書籍が手本としたところの紙の本の表現様式は大昔からあるものではなく、印刷博物館やグーテンベルク博物館などで見ればわかるように、産業革命以降の大量生産工業製品として「標準化」されたもので、メディアとしては淘汰の結果として残ったスタイルなのである。
では何がメディアを淘汰させたのか? 産業革命の蚊帳の外であった江戸時代の日本では木版の手作りで本を作っていたが、何々草子という手のひらサイズの小冊子が大衆的に普及した。江戸では多くの貸本屋(行商が主体)があって誰でも(武家や商家なら)読むことができた。同じころにヨーロッパではポケットブックの大衆小説が作られるようになって、それも手のひらサイズであった。要するに手のひらの大きさというのがメディアの様式を決める一つとなっていたのである。そのサイズならヨーロッパならポケットに入り、日本なら着物の裾に入って、持ち運びできたのである。
その倍くらいの本というのがあって、それは教科書など鞄に入れて持ち運ぶものであった。これがタブレットの原型でもある。つまり大衆的に広まる紙メディアは、衣服に入れるサイズと、鞄に入れるサイズになるわけである。ただこういう身体に起因するサイズというのは体格差があるので、いったいiPod-miniは手のひらなのか、鞄サイズなのか、とかいうことも起こってしまう。そのほかビジュアル誌とか浮世絵とか15-17インチ画面のような媒体も登場するが、ここには別の要素があるので今は採りあげない。
そうするとなぜメディアは紙でもデジタルでも手のひらサイズになるのかという問いがある。それは人間の眼の作りや、手先の機能と関係がある。人が他の動物と異なって発達させたのは指先の緻密な動きと、それを制御するための眼の働きである。人類の文明の始まりとともに糸と針がある。糸を作るのも針を作るのも手先の器用さとともに、指先の細かいものを見分ける眼が必要である。つまり人の眼は針に糸を通すような局面で一番よく見えるようにできているのである。これは文庫本を見る姿勢であり、逆に言うと糸と針の作業に最適化された人間に疲労なく字を読ませるには文庫本のようなサイズや文字の大きさになってしまうということなのだろう。
糸と針の作業というのはかなりの長時間続くものであり、長時間の読書という行為がそこに寄生したのだともいえる。