投稿日: Jan 06, 2016 12:16:33 AM
若い人が自分のことをコミュ障のようにへりくだって自己紹介することがある。集団の中でうまくコミュニケーションが取れない原因は自分のようなものがいるから、というようなエクスキュースを先に打ち出しているようにも思える。実際に会って話をしている時に、その若者に何かコミュニケーションの断絶のようなものがあるとは思えない。しかし若者側からすると、自分に対するコミュニケーションはちょっと気を付けてほしいというシグナルを出しているのだろう。
先日NHKの「クローズアップ現代」で、外国人労働者に対しても雇用側が空気を読めとか阿吽の呼吸を要求すると、相手は疎外感を感じて退職する人が多いということを言っていた。「阿吽の呼吸」は島国特有の文化なので、世界からすると特異な状況で、そこに外国人に入れというのは無理があるし、たとえ日本人でも世代の異なる層には通じないものである。つまり阿吽の呼吸を要求する雇用側が世界からするとコミュ障なのであって、若者はそれを感じ取って先回りしているのだ。きっと何をやるべきか、やってはいけないのか、はっきり伝えて欲しいと思うのだろう。
アメリカのものを読んでいていろんなところで目にするのは、"Dos&Don'ts"という、やるべきこと、しないことのリストで、いいかえるとマニュアル化であって、多民族が混在するから先入観で勝手なことはしないように、というのが、まずもっての約束である。日本人はこういったレベルのルールは常識として一括扱っているが、今の社会になると一括りにするのは乱暴なのだろう。
それは以前は企業文化が相当特異なものであっても、社内では一般社会と異なる常識が強要されてきたのが、コンプライアンスの時代になると企業も社会の構成員として同じ常識に従わなければならず、会社固有のルールは別途明文化することが求められるからだ。
要するに企業とか雇用側が働く人に求めることをちゃんと明文化していなければ、日本の若者ともうまくいかないし、外国人の雇用も難しくなるということで、これは企業におけるリテラシー問題なのだなと感じた。これは仕入先、顧客をつないだサプライチェーンとか、株主を含むステークホルダとか、企業が内包するコミュニケーション課題全般に通じる何かかあると考えるべきだろう。
残念なのは、この何かを皆が理解するところまではいっていなので、カリスマ経営者のような人がいる会社でないとルールが見えるようにならないことだ。
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