投稿日: Oct 20, 2010 10:57:52 PM
夢を枯らせたくない方へ
ノーベル賞受賞者のインタビューを聞いていると、何十年前に未来を手探りしていた人たちであることがわかる。誰もがノーベル賞を目指せるわけではないが、そういった人に引っ張られた日本人がさまざまな技術革新をしていったのは事実である。我々ノーベル賞論外者にとっては、誰の後をついていくのかというのが、生涯の仕事の充実という点では大きな岐路になるのかもしれない。逆に目標が持てないとどのようなことになるのか? 将来拓けることのない、その場限りの仕事を延々と繰り返して、定年後には自分達のした仕事は跡形なくなっている。孫もお爺ちゃんは何をしていた人だか理解できいない。これが日本のサラリーマンの平均像だろう。
日本語ワードプロセッサが登場したときには、夢の実現のように思われたが、その先に発想が行かなかった。つまり夢と現実の差ばかりを問題にしていた。アレが足りない、コレが足りない、ということに終始して、各社がシーソーのように機能を追加して、年に2回くらいモデルチェンジをしていた。そのころ開発者の勉強会開催や相談にのっていたのでいろんなディスカッションをしたのだが、若い開発者にとっては半年のうちに次のモデルを世に出さないければならないというのが第一義だったので、フォントでも組版でも文書管理でも半年のうちにプログラム可能なこと、さらに売価から逆算してCPUやメモリの能力が決まっているので、そこで納まるように仕様は省略されてしまう。競合メーカーを見ながら半年単位でこれをしていてたので、次なるステージに夢を前進させることはできなかった。
アメリカのDOS上のソフトWPは日本のWP専用機よりも劣っているところは多かったのに、OSの進歩、FEPの進歩、周辺機器の進歩、それにともなうドライバの進歩、などなど各要素があるべき方向に改良されていくことが重なり合って、最終的にはWordとかDTPのように印刷のプロが使うレベルにまで達した。それぞれ競争している開発者であっても頭の中には共通したロードマップを持っていたかのような連携振りである。DTPの開発者ともやりとりがあったが、決して日本の開発者が能力的に劣る点はなかったのに、会社の目指す方向性や管理方法が違っていた。つまり日本の負けは経営サイドの負けであった。これは今のガラケーvsスマートフォンの構図のように、ネットにおいても怖いぐらいに全く同じ状況で、先は見えていると断言できる。
そして電子書籍というのも同じ轍を踏もうとしている。ジャーナリズムもまたソーシャルメディアの書き込みでさえ、ガジェットのお買い物談義を出ないものがほとんどだ。これは初期WPのアレが足りない、コレが足りない、と同レベルである。当然製品化するには当初のアーリーアダプターの気持ちをくすぐらなければならないことはわかるが、製品のライフサイクル全体にわたる戦略と設計が必要である。特に本というのは非常にライフサイクルの長いものになる。記事『読者から見た出版とは』では、古本や図書館や家族での本の継承を取り上げたが、出版文化というのを社会的に考えてみることも必要で、社会に根付く電子書籍の像が浮かばないと、何年か後には過去の遺物になるような製品しかできないだろう。Appleはmp3の持つポテンシャルをベースに、単に独自フォーマットにするだけではなく、iPod、iTuneといったライフスタイルに纏め上げることができたから会社として息を吹き返した。デバイスの枝葉抹消の仕様変更に明け暮れてていたらAppleはつぶれていたであろう。