投稿日: Oct 21, 2013 1:31:56 AM
ハフポストは自己宣伝の場?
日本版ハフポストは頑張っているのだろうが、なんともいえないまとまりのなさを感じる。日本には共通の志でくくれるようなフリーのジャーナリストは居なくて、書き手の自己宣伝の場になってしまうのではないかとさえ危惧する。アメリカは新聞社と契約はしていてもフリーのジャーナリストやカメラマンが活躍しているわけで、その人たちがHuffPostなどに関与してくると、HuffPostのクオリティも一流感がでるわけだが、日本版は写真をみてもダサダサだからどうやったら日本でクオリティを上げられるかが課題になるだろう。メディアとして考えると書き手に依存するのではなく、メディアとしての一貫した編集方針というのがクオリティであると思う。
アメリカではジャーナリストの学校がいろいろあって、そこで共通の何かを学んで自立するという流れだと思う。つまり何も知らない新入社員を新聞社や放送局が社内で教育するのではなく、むしろジャーナリストはメディアから距離置くことも重視していると思う。ただし仕事としての成果は放送・新聞・雑誌その他メディアに採用されないと喰ってはいけないので、そこでメディア側とジャーナリスト側のせめぎあいが生じて、お互い妥協できるギリギリのところでバランスさせればフレッシュな感じになる。
特に紛争・戦争などが起こるとフリーランスが現地に深く入り込む競争というのが起こるが、日本のメディアは外電ニュースをコピペしているだけである。天安門事件の時でさえ欧米ジャーナリストは入り込んだのに日本のメディアのサラリーマンは行かなかった。 この違いがどこから生じるのかについては、CNNが掲げるジャーナリズムの役割を記事『当事者と 野次馬』で触れたが、今後は欧米と日本はもっと大きな開きが出来てしまうのではないかと思う。
たとえばIT・ネットワークの発達でユビキタスな環境が充実してくると、ひとりのジャーナリストが可能なことが増えてくる。写真・動画・音声なども最初の資料としてジャーナリストがもっているわけだから、そういった素材からどうやってメディアを構成すればよいのかというのが新たな課題だと思うからだ。
つまり日本は記者の取材データをデスクに持ち帰って編成するわけで、既存マスメディアはデスク主導のメディアといえ、新聞なら動画・音声は捨てられ、放送なら長文テキストは捨てられてしまう。これがジャーナリスト主導なら、動画・音声・文章も捨てるところなく、必要なメディアに投稿してうまく分配させることができる。
前職でイベントをした際にテレビの取材を受けたことが何度かかったが、彼らが入手した資料や素材の殆どは捨てられる様子を見て考えさせられたものだった。その場合は5分ほどのネタができれば仕事はオワリなわけで、それに比べて雑誌の契約ライターさんの方がよほど理解して仕事をしていると思った。
ともかく、メディアの成り立ちそのものを変えなければならない時代に向かっているのだから、紙の情報を画面にコピペしたらデジタルメディアになるような認識は改めなければならない。
記事『表層と深堀』でちょっと触れた http://thinktionary.org/ の Whole Earth Intelligence (分野横断的で、予見的な新しい“視点”を集積し、提供するハイブリッド・マガジン)は、fragments (要素となる情報) と Passages (文脈のようなもの)から成り、ニュースの羅列ではなく、「事象→串刺し→新たな文脈発見」という場を作り出そうとしている点が単なる従来の集合知と異なる。こういったプラットフォームの試みがジャーナリスト主導に役立ちそうだ。