投稿日: Mar 02, 2013 2:52:57 AM
何かが食い違っていると思う方へ
Macでハイパーカードが使えるようになった時に社会学の山中速人教授(現・関西学院大学)がレポートにマルチメディアを使っておられたが、研究業績に紙の本は挙がっていてもデジタルメディア作品は掲載されていないことを、記事『やればできることが、されていない』で書いたことがある。マルチメディアとかクロスメディアというのは技術的には語れることはあっても、応用面で使う言葉ではない。山中先生の場合はフィールドワークで集める素材が、写真・インタビュー・ビデオなどであるので、それがそのまま添付できるマルチメディアは都合がよいわけで、山中先生をマルチメディアの先生と呼ぶのは筋違いで、やはり社会学の成果の方に目を向けなければならない。
今日ではマルチメディア技術など知らなくてもいろんな情報が扱えるようになっているのに、いわゆる「メディア」という括りを掲げている商業出版や学術論文は、自分でアウトプットの形はこうでなければならないという拘りが強く、集まってくる情報を自由に編集・出力することの妨げになっている。子供でもスマホで動画を撮っているし、事故現場でも居合わせた人がスマホで撮った動画・写真が最も情報価値の高いものになっているように、動画をわざわざ静止画にするとか音声を文字に置き換えることは情報を劣化させているばかりでなく、表現をしようとする場合の障壁にすらなっている。
よくボーンデジタルの時代であるといわれるように、デジタル化による効率的なメディアの形を作ろうとするのであれば、既存の編集・制作というプロセスの後ろにデジタル表現をどうするか考えるのではなく、むしろ情報の入り口がデジタルに対応することが先決で、それらを効率的に編集することがメディアビジネス全体を通しても最も重要であると考えるべきである。しかし現実にはそこが最も遅れているところで、それは編集側が素材のデジタル化をやりたがらなかったからである。(新聞社やNHKなどは1990年代からデジタル化を進めているが、特に出版側はまだ制作側にデジタルを任せっきりのところが多い)
要するに今までは制作側に引きずられてデジタル対応をしていたために、旧来メディアの制約を編集側が負ったままの歪なデジタル化やデジタル観が編集側に植えつけられてしまったのだろうと思う。紙の本を敵視して撲滅しなければならないというのは妄想だが、一方で紙の本へのフィテシズムとか偶像崇拝というのは払拭しないと自己変革ができないでメディアのビジネスは前に進まない。出版側の紙ふぇちを利用して、お侍さんには「ちょんまげ」が最もお似合いですと持ち上げて仕事をもらっている印刷会社もあるが、「ちょんまげ」は相撲のような世界にしか残らないのである。将来的には紙の本の居場所ではなくなってしまいそうなところは、出版の全プロセスを構築し直さないとデジタルで効率的なビジネスはできない。
デジタルメディアを作るのが目的なのではなく、冒頭の山中先生なら調査方法にふさわしいマルチメディア取材をすることが成果に結びつくように、よいメディア表現をするためにいろんな素材メディアを持ち寄ってコラボレーションができる場を提供するのが新たなパブリッシングの役割となるだろう。