投稿日: Feb 27, 2014 1:59:18 AM
組版を教えるところはなくなった
文字組版を云々する編集者も減っているが、制作者も読者も、かつてとは大きく変わってしまった。しかし電子書籍のリーダーの組版挙動に関してはかつてと同じ様な議論や批評があって、懐かしくもある。日本語文章表現に関する正書法とか組み方の基準というのは曖昧なもので、活版以降の出版の産業化の中で次第に蓄積されたものであり、それに関った長年のベテランが社内教育で伝授し、また批評もしていた。
しかしそれだけでは個々の会社のノウハウにはなっても、社会的には相対的な価値基準であり、文字組版の品質の向上とか安定化をもたらすことはできない。そういった危機意識が芽生えたのは1980年代に日本語ワードプロセッサが登場した時で、組版の調査や研究が公にされるようになり、JISの文字組版などができたし、文字コードの拡張もされた。
その間のいろんな調査にかかわった経験から、印刷や出版の伝統的な組版観とは別の視点がなければ、この種の産業の指針となる「標準」は決められないのだな、と思った。日本語ワードプロセッサでもDTPでもWebでも電子書籍でもソフトウェアの世界の人と一緒に開発するわけだが、その時の仕様の決め方は、伝統的な専門家の「こうあるべき」「これがきれい」とは異なって、紙面を見る人にとってどういう違いがあるのかという視点で考えるからだ。
今は日本語組版のエンジンも大半はアメリカ製になったわけだが、アメリカの組版事情を調べた時に、日本と同じくベテランが批評しているものもあったが、デザイン分野では「読者テスト」が行われて、例えば2種類の組版方法があった場合に、「100人に聞きました」的にアンケートをとって参考にするような方法である。これは日本では滅多にやらなかったが、おそらくマイクロソフトがフォントを決めるときにはやったかもしれない。
ただしこの方法はあまり微妙なことは聞き出すことができない。「朝日新聞と読売新聞とどちらが読みやすいですか?」と聞くと、自分がとっている新聞が読みやすいと答える人が多いわけで、それは目に馴染んだものが好まれるからである。
今の若いデザイナは組版のオーソリティとかタイポグラフィの研究者と接する機会がほとんどないであろうから、大衆的な視点でデザインすることが増えるのではないだろうか。
つまり組版もデザインの一要素であって、クリエータにとっての良しあしと、大衆にとっての良しあしの2重の価値基準がある。かつては作る側の思い込みだけで良しあしを決めていたものが、どうも最近では通用しなくなって、大衆が気にしないところはあまり手間暇をかけないようになりつつあると思う。でもそれは決して質が悪くなるということではない。アナログの時代に比べれば底辺は上がってきたのは確かで、ただ平均点以上のものがなかなか見られなくなったということではないだろうか?
特にWebやリフローの文字組版を見る機会が増えるにつれて、クリエーター側の組版及びレイアウトデザインの意図を伝えることが難しくなって、組版は思い道理には「いじれない」という諦めも漂っていて、組版を突き詰めようという人はこのまま減っていくと考えられる。