投稿日: Mar 07, 2013 12:35:7 AM
異なるモデルを考えるのは難しいと思う方へ
マスメディアが果たしていた役割は、部数やオーディエンスが多いというだけではなく、今社会に必要な情報のヒエラルヒーを管理していたということがある。戦時には戦果戦禍報告が、災害時には被災状況が、選挙時には新たな勢力地図がニュースのトップを飾る。このためにマスメディアには社会の良識の中心(木鐸とか呼んでいた)の役割があるように言われた。まあそういう面もあるにしてもイデオロギーとかマスメディア自身の商売上とか、いろんなバイアスがかかるので、誰でも納得する良識の中心にはなり難いだろう。実際には社会の木鐸というのは幻想に過ぎないというか、思考停止であると思う。
水俣病のことを振り返ると、最初に漁民の体の異変を伝えたのは地元のガリ版メディアで、これが全国紙に採り上げられるまでには何年もかかり、結局長い裁判を経て、加害者企業であるチッソは100年計画で保障をすることになる。その間に苦しみの中で亡くなった方は大勢居るので、いくら保障が決まっても空しいものである。歴史的にみるとマスメディアに載る情報は「後の祭り」である。それ以前に人々が考え、行動するためのメディアが必要なのだ。
ほとんど紙メディアに依存していた時代には、こういうようにボトムアップでマスメディアに情報が集約されないと社会的な取り扱いがされない状況は仕方がなかった面もあるのだろうが、今社会の木鐸を考えるならば、積極的にマスメディアの補完をどうすればよいかに取り組むべきだ。新聞社はカメラコンテストなどを行っていて、時々優秀作品を発表しているが、こういうことは毎日行うことができる時代なのである。新聞社は売上の足しにならないことには力が入らないのだろうが、それ以上に情報のトップダウンを最上のモデルと考えているので、ネットの利用によってボトムアップの情報を社会に循環させて、人々の意識を活性化させるということはしないのだろう。
世界的にマスメディアが退潮にみえるのは、単に量的にも質的にも飽和したからだと思うが、そこから新しいメディアが生まれてこないのは、マスメディアが形成してきた各メディアのトップに君臨するというエコシステムを変えられないからである。メディアのトップと言う自負が邪魔して「後の祭り」情報を出し続けることになる。それを補完する行動のためのメディアは別のエコシステムが必要で、それは記事『メディアの役割としてのコラボレーション』に書いたバリューチェーンの入り口と、記事『メディア作りの動機』のバリューチェーンの真ん中にある情報蓄積とその利用のようなことが兆しとしてある。つまりデジタルとネットでバリューチェーンが従来のトップダウンではなくフラットなものにすっかり変わらないと、メディアの新しいエコシステムにはならないと思う。