投稿日: Aug 21, 2014 1:4:46 AM
日常のニュースに出てくるテーマで、慰安婦、拉致、原発、食の安全、個人情報、などなど真面目に議論すべきものはたくさんあるのだけれども、じっくり腰を据えて考えるようにはならず、大抵は2派に分かれて言いっぱなしになるとか、責任問題でどこかを集中攻撃するだけで、しばらくすると静かになってしまう。
政治家でも企業でも責任をとらなければならないことはあるにしても、再発の防止というのを考えると、責任をとるだけでは不十分で、社会の仕組みとしてどのように改善していくのかという議論に向かわなければならない。自然災害のように誰も責任をとれない問題だって多くあるので、誰が元凶化なのかという指向だけでは社会はよくならないのである。
選挙の投票率から考えても、日本は国民一人一人が社会的な課題をあまり考えていないことがわかる。それは目下の社会が深刻な状態ではないことからくるもので、ある意味では結構なことではあるが、重大な問題が発生した場合の対応力というのは不安になる。古典的な国家では国民が重大事に動揺しないように、何らかの宗教観・国家観・民族のアイデンティティ・仮想敵などを構築しておいて、教育を通じて子供のうちから擦り込んでおいて対応しようとしていた。戦前の日本はそうであるし、現在でもヨーロッパ以外のほとんどの国はそのような原理によって国の運営をしているように見える。日本はどうしたらいいのだろうか?
しかしインターネットの時代は、ムリムリ構築した宗教観・国家観・民族のアイデンティティ・仮想敵などの化けの皮が剥がれやすくなってしまった。アラブの春とかいわれて長期独裁政権が民衆の支持を失ったのは、既存の国内メディアによる情報統制ができなくなったからであった。日本のマスコミがディスられているのもある面では似たところがある。いずれにせよ、国という単位の社会を一つの理念でムリムリくくるという経営は自然にはできず、軍政とか一党独裁のような強権政治が復活しつつあるのが現在の地球である。
これは自由貿易による経済のバランスによって、各国の格差が次第に平準化して、みんなが幸せに近づくのだろうという、楽観的市場経済論の破たんでもある。
それでは人類としては破たんに向かうのか?結論付けるのはまだはやいだろう。戦争とか経済破たんを避けるための努力をせざるを得なくなるのだが、まず手を付ける必要があるのは、ムリムリ構築したものを国民に押し付けるのではなく、アイデンティティ自体をみんなで考えて共有するところであろう。これは過去の歴史やこれからの国際関係を考えてビジョンつくりをするようなもので、産業や文化の各分野ごとに行われるべきもので、それらを総まとめにする。
例えば今でも似たようなことはされていてるのだが、それを役所と特定の学識経験者の会議に任せるのではなく、オープンにするべきである。これはインテリの仕事であって、高等教育は個人の出世のために行われるのではなく、社会に根差した人格形成のためにあるというのが、大体の大学の建学の理念に書かれているはずなのに、そうはなっていないのが現実なのである。
つまり冒頭のことについては、大学の株式会社化とか拝金主義が横行するようになって、国民は断片知識を振り回して、お互いにDisりあっている愚かな姿に見えるのだ。
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