投稿日: Mar 12, 2012 2:1:25 AM
復興は未来へのメッセージと思う方へ
いつも震災の記念日などには黙祷の時間がもたれるが、3.11は黙祷が終わっても黙祷状態が続いて、いろいろなことが思い出された。被災に関する多くの出来事が伝えられた1年であったので、個人の側はそれらを受け入れることが主になっていて、そこから各人が気持ちを整理して、何かに立ち向かうとか、起き上がるにはそれなりに時間がかかる。ふっと思い出したのは佐藤水産のことだった。ニュースで伝えられたのは、水産加工場に中国大連からの研修生を受け入れていて、佐藤専務はまず20名程の研修生の手を引き高台にある神社まで誘導し全員助かったが、佐藤専務は逃げ遅れた人を探しに戻って大津波で帰らぬ人となった。このことは佐藤水産のHP『女川、そして佐藤水産の現状』にある。
当時佐藤水産のニュースが気に留まった理由は、大連のDTPと関係があったので研修生のイメージが重なったからであろう。日本と大連は特に中小企業でのつながりが多く、中国の中でも気質的に一緒に仕事がやりやすいところでもあった。台湾からも被災地に多額の義援金がよせられたように、東アジアの範囲での絆が強まっているようにも感じる。文化の輸出入というのと仕事の協業というのは別物ではなく、永い目で考えるべきテーマがあるなと思った。
2011年10月には仙台に行く機会があって、その際に女川を案内してもらった。その際のことは記事『石巻→女川を案内していただいた』に書いたが、生き残った人がいるのが奇跡なほど、港町は壊滅していた。
この写真は流されてしまった女川駅跡から町役場跡を見たものだが、この3階建ての全部が水没している。この左手の山の急斜面に小さな神社があって、そこは流されずに残った。ところがこれとは線路の反対側にも山手があり、その斜面の途中にお寺か墓地の跡のようなものがあって、そこは完全に流されていた。つまりお寺の方が少し下にあったのである。だからこの場合、駅から右のお寺に駆け上った人は被害にあって、駅から左の神社に駆け上った人は助かったということになる。
仙台から帰ってから分かったのは、その神社こそが佐藤専務が中国人を連れていったところだったのだ。YouTubeに『中国人研修生が撮ったビデオ』というのがあって、高台へ避難を呼びかける放送から町が水没するまでの7分間が収められている。この場所に自分が行ったというのは実に不思議な気がしたし、その光景が脳裏に焼きついているのであらためて自然の威力というのを感じた。また佐藤専務が中国人を避難させられたことは、生き残る人の側に偶然の幸運があったという見方もあろうが、実は想定を上回ることが起こっても、過去の経験が生かされているということでもある。
おそらく佐藤水産から何百メートルかの距離があるところへ、街の細い道をぬっての避難であり、佐藤専務は以前から避難するならあそこという意識があって、研修生を連れ出したのであろう。ビデオの最初に研修生は指差してアベさんアベさんと叫んでいる。地元の人もこぞって少ししかない女川の港付近の高台を目指したであろうが、より安全そうな高台を目指した人と、そうでない人の差があったように思える。そもそも繰り返し津波被害に遭っている東北沿岸で言い伝えられていることや記念碑というのは現代でもサバイバルの最大のよりどころであるし、それに沿った訓練や意識付けが先決であることがわかる。