投稿日: Jan 17, 2012 12:58:4 AM
向くもの向かないものがあると思う方へ
ソーシャルメディア・マーケティングで、誰でも即販促効果があるような話は、だんだん信用されなくなっていて、かえって「ソーシャルメディアやってもなあ…」という声が広告関係者やクライアントから聞こえてきたりする。確かに既存メディア広告やDMのレスポンス率のようなよりどころが無いのがソーシャルメディアである。特にマスオーディエンスには届きにくいので、勢い宛名リスト屋みたいな「twitterのフォロー売ります」という商売が出てきて、そもそも何をしようとしていたのか分からなくなってしまうこともある。
記事『今何処で何しているとつぶやくのは正しい』では、人はなぜ特段の目的もない情報発信をするのだろうか?について考察し始めていて、人の意識の変容は自問自答や雑談の繰り返しの中から起こるのではないかということを書いた。つまり「好きだ/嫌いだ」とつぶやくことで、自分で再確認して納得したり、「いやまてよ…」と再考することもある。いずれにせよ個人は日常のありふれた自己表現を通じて自分の意識に作っていく。それが「お茶する」なのだがメディア・コミュニケーションのコモディティ化によって長電話であったり、親しい人との頻繁なメールであったり、SNSであったりする。ここで「お茶」「長電話」よりも文字化して記録されるSNSの方が客観性が高まって、社会的に好ましい方向が見えてくる。
しかし自殺サイトのような偏狭な人の集合も完全に無くすことはできないのだろうが、情報流通の全体は良貨が悪貨を駆逐する方向で進むと信じている人がWikiやGoogleなどを支持してきたし、そういう延長上にyoutubeやtwitterやfacebookもある。日本人からみると楽天的な考えに思えるかもしれない「ラジカルトラスト」を受け入れられない人は、新しいメディアやコミュニケーションがもたらすマイナス面ばかりを議論することになってしまう。つまりオープン化が公平性を高めるという考えと、オープンは危ないという考えは平行線であって、その間には神学論争のような議論の余地がない状態のままでインターネットが使われているのである。
広告に話を戻すと、企業なり組織が社会性を尊重している場合はソーシャルメディアに情報発信することは使命の延長上にあって、そこでどれだけ儲かる云々を議論する必要は無い。昔から「暮らしの手帖」とかコンシュマレポートなど、そういたメディアはあった。ところが心の底で「オープンは危ない」と思っている組織にとってはソーシャルメディアはDMの延長であったり、あるいはもっとタチの悪いバジーなもので、今後とも困惑の種になるだろう。過去にもTVの一億総白痴化、マンガ亡国論、などにメディア企業がはまり込んでしまうことは自縛なので、もうメディアの活用などはできなくなってしまう。むしろメディア特性を活かしてマイナス面を克服しようという努力ができるところが伸びるのである。
ソーシャルメディアの発達そのものが、良貨が悪貨を駆逐する「ラジカルトラスト」の証明になって、社会性を尊重する組織活動を支援する時代に向かうはずなのだが、まずは利用者を増やすことで既存のオープンでないメディアを揺さぶり、既存メディアの自縛を解いて情報流通を活性化させようとしている時期だといえるだろう。