投稿日: Apr 11, 2012 12:10:49 AM
eBookの価格の裏づけに迷う方へ
先日行なったセミナー「出版を最先端ビジネスにしたAmazon 」の続きとして、「E-Bookの価格問題を考える」という研究会を行なうのだが、価格設定というと原価問題というのが一方にあり、これはコンテンツビジネスでは絶対解明不可能な命題なので、どう話を進めるべきか悩ましい。製造業ならば製造コストというのがはじき出せ、値引きもこれが限界ですといえるのだが、タダでコピーが可能な無体物であるデジタルコンテンツは勝手が違う。紙の本なら古本でも資産価値が設定できるが、デジタルは譲渡できない。今日本の電子書籍がビジネスとして本格的にキックオフできないのは、当事者の間で価格設定をどう考えたらよいのか腹に落ちないからだろう。しかもこれは永遠に続く課題であろう。
結論からすると、無体物に所有の概念はできないだろう。だから買うという行為は成り立たない。あくまで使うというサービスなのである。これはコンピュータのソフトウェアの歴史をみても、同じようなことをしてきたことがわかる。IBMは無理やりにソフトウェアに著作権を設定して、その延長上にビジネスをしていたのだが、今ではオープンソースに出資して、事実上は知財権ビジネスとは逆のベクトルになってしまった。つまりソリューションビジネスに変わったのである。パソコンプログラムも最初は著作権の考え方はなかったが、ビルゲイツはうまくOSやアプリをパッケージの商品化をした。これは論理的な面での構築ではなく、単なる商売として成し遂げただけで、今またソフトは商品にならなくなっている。クラウド時代においては、ソフトウェアも使うというサービスなのである。
こういった方向に進むことを残念がる人も居るが、そうだろうか?紙の本のように情報をモノとしての資産にした方が不自然なのかもしれない。私はアナログレコードを一部屋持っているのだが、こんなものを後生大事に保管しているのは異常に思われても仕方が無い。本でも同じである。じいさんが死んだときに書斎のかたずけをしたのだが、壁面いっぱいあった戦前の全集のようなものはすべてゴミになった。しかし、じいさんが生きていたときにはそれは何らかの価値をもっていたはずである。それは全集に価値があったのではなく、浮世絵や茶器や骨董品収集の延長上にあり、部屋のインテリアの一部をなしていたと思われる。
つまり立派な本もレコードも買おうとするときの期待感の盛り上がりに対して対価を払っていたのではないかと思う。それは浮世絵や茶器や骨董品の品定めやウンチクと同じようなものが本にもあてはまるからである。これはいつの時代も永遠に楽しいし、年老いて体が動かなくなっても金さえあれば楽しめるものである。しかし悲しいかな本は工業製品なので、浮世絵や茶器や骨董品ほどの資産価値はない。つまり本のようなコンテンツは外側の品定めやウンチクに行き過ぎても意味が無いのである。これは本の歴史を見ても、最初は聖書の写本を真似るようなところから始まったものの、広がるにつれてポケットブックになっていったことからもわかる。
だからモノから離れて無限のページをいつでも開けられるeBookというのは、ポケットブックの延長上にあるユビキタスブックとして存在するのは当然のように思えるし、そこを考えていくには資産性はサッパリ捨て去っていかなければならないと思う。(ちなみに私自身はレコードを処分しなければならず、それらは世の中に他所にないから自分でデジタルでライブラリ化して、ユビキタスに楽しめるように鋭意作業中)