投稿日: Oct 02, 2011 10:25:26 PM
SNSは擬似的雑談だと思う方へ
日本でfacebook利用者が1000万人になりmixiに迫りつつある。facebookだからといってmixiやtwitterとコンテンツがそれほど変わるわけではなく、ケータイからのアップロードやショートメッセージなどがあいかわらず多く、表現媒体がfacebookにシフトしているのだろう。facebookの側からすると、表現内容が文字であったり、写真であったりするたびにいろいろなメディアやツールを使い分けるよりも、全部まとめて扱ってくれるfacebookが便利なのであろう。ところでなぜ人はこのような特段の目的もないような情報発信をするのだろうか?
日本でtwitterの利用者が急増した理由として、移動の際の駅での待ち時間や車中のひまつぶしに使われたことが考えられる。何処々々ナウとつぶやいても、そのことの意味を分かってくれる人はほとんどいないだろうに、そのようにつぶやくのは、自分でもはっきりしない潜在的な意識を明確にしようとする行為であって、以前なら自分の中で何か意識化しそうなものがあっても、傍に友人でもいない限り口には出さなかったようなことが、モバイルによってついつい表現してしまうようになったと考えられる。
友人とどうでもいいような話をしていても、その受け答えを通じて自分が何を考えているか、どんな意識であったのかを確認することができる。つまり何か心の中に悶々とするものがあったなら、誰かと話してみると考え方の方向とか目処がつくことがある。自分という存在は他人から独立して保つことはできず、合意できることもできないことも含めて他人にぶつけながら自問自答して作り出していっているともいえる。こういったとりとめのない話に人は多大な時間を使っているし、電話が発達すると長電話、メールができると頻繁なショートメールのやり取りとなり、それがSNSに移ってきていると考えられる。
ケータイ文化になって写真のアップロードが容易になったことから、場所や食べ物に関する情報が多くなっていているのは、これらに関する描写を文字でするのは面倒だからであろう。これら一つ一つはそれほどコメントすることがないにしても、ずっと眺めているとそこから感じられるものはある。例えばゲリラ豪雨の際の黒い雲などがたくさんアップされるのを見ると、ニュースや天気予報とは別の観点から気象変動を感じることができる。食べ物の嗜好や世の中の話題もそうであって、知の共有とか情報化という以前の段階で、リアルタイムに近い感覚共有がある。これはすでに起こっていることであるが、それと従来からある記述されたUGC的情報、また専門家が書いたコピーなど、生活者には混ざって届けられる。
それらがどのように評価されているのか、相互に影響しあうのか、などはこれからのテーマなのだが、おそらくは友人と話しながら自分を見つめなおすようなことが、ソーシャルメディアという中で擬似的に起こってくるのであろう。