投稿日: Feb 05, 2014 12:7:48 AM
ステークホルダを再考する
あまり昔の回想話は好きではないのだが、システムソフトの樺島さんへのインタビューがYouTubeに載りはじめたので,
これは特別だと思って見てみた。第1回はシステムソフト設立までの背景や経緯であった。1979年に30歳で3人で始めた会社で、最初はパソコン販売やソフト開発であったようだ。樺島社長とは同じくらいの年なので、当時の話に出てくるエピソードは細部まで理解でき、そのころ自分は何をしていたのかも克明に思い出した。それで思ったことは、パソコンブームというのが起こった背景には、ビジネスが起こしやすい条件がいろいろあったんだということである。それは今後日本の活性化にも関係があろう。
あとから振り返ってのことだが、日本のパソコンの草分けとなる拠点が東京以外に福岡と北海道にあって、そこには共通の要素があったというのが面白い。具体的には九州大学や北海道大学の学生および出身のベンチャーの役割が大きかったことである。パソコンの技術や文化はアメリカ発なので、日本で東京に会社を構えなくてもパソコン関連の仕事ができたということである。インタビューではうまくいった例として、ソフトの九州、ハードの北海道、という対比も語られていた。
当然ながら日本では東京の市場が広いから東京でのビジネスが大きくなるわけだが、逆に九州や北海道では地域のビジネスだけをしていても会社は伸びないので、単なるパソコンショップではなく全国的に波及する仕事を目指すことになるという。システムソフトの出版活動については、システムソフトが九州松下にパソコンを売っていて、そのお客さんがOSの解析をしたのを本にして出したのが始まりであるということで、店と顧客との密なつながりがあったことを感じさせる。
こういう地元での人脈形成とともにベンチャー企業が伸びたことは、ちょっとタイプが違うもののシリコンバレーとも通じるものがある。東京でも何らかの人脈があってこそベンチャーが存続できるのだろうが、ベンチャーを支え、アイディアを分け合い、仕事の発注や協力関係もでき、成長させていくには、単なるその場限りの受注関係以上の人間関係が必要になるのだろうと思った。それが地方には形成されやすく、しかも九州と北海道にはパソコン文化や産業に向いた若い人材が多くいたことが、ソフトの九州、ハードの北海道、になった理由だったのだろう。