投稿日: Jun 30, 2014 12:54:55 AM
私はこの20年ほど地域教会で日曜学校の手伝いをしているので、かつての幼児がもう結婚するくらいになっている。今年も夏のイベント企画をたてて準備にとりかかり始めた。流しソーメンをするに際しては竹林に竹を切り出しに行くところから始める。昨日の日曜日の午後に十分な太さのある真っ直ぐな竹をゲットできて満足だった。今はイベント用品も何でも売っているが、基本は買わずに何とか工夫してそれらしく行うことをモットーにしているのだが、このやり方は楽ではない。材料・素材の入手、加工法・道具などのについて、いちいち自分で考えなければならないからである。
まず流しソーメンに使える竹はどこに生えているのか?それは誰に相談すればタダで手に入るか?どうやって教会に運ぶか?加工は?などなどは、一度経験しても、2回目から全く同じようには行かないからである。こういったことに携わるメンバーは毎年変わるし、以前は軽トラックを持っている方がいたので長い竹を運んだのだが、今回はフツーの乗用車しかない…などなど条件も変わるので、考えるのが面倒くさいという人もいる。
この20年間を振り返ると、なんだか面白そうだからやってみようという若者は減ってきたかもしれない。教会には過去からいろんなことをしてきた人々がいて、その人たちの技を若い人に伝授しようと思っても、なかなかそうはいかないということがよくある。それはそれでいいと思う。全く同じことをやってもらう必要はなく、若い人は自分流にやってもらえばいいので、単に自分たちでやりだすきっかけを我々は与えればいいのだと思う。
なぜ若い人が手作りから遠ざかりつつあるのかというと、日本社会が豊かになって何でも手に入るようになり、文化が消費型に大きく偏ってきたからだろう。おかあさんが子供に団子やドーナッツやクッキーを作ってあげて、その過程を子供が見ているということも減ったと思う。お母さんも子供も忙しく日々を送っている。その中で消費型に移行するのは生活が効率的になるからだ。おやつを手作りするよりも100円玉を渡す方がはるかにラクである。しかしあまりにも全てを効率優先で考えてしまうと、抜け落ちてしまうものがある。それは総合的にモノゴトを考える力である。
つまり現代日本の教育は、「効率的に知識を増す」vs「総合的に考える」という対立の狭間にあるといえる。教会は効率的に知識を増やすところではないので、通う子供たちには総合的な思考力をつけてもらいたく、イベントを通しても準備の手の内を見てもらうことを心がけている。だから企画の途中で子供の発案があったらなるべく取り入れるし、イベントそのものもなるべく子供に手伝ってもらえるのがよい。子供に手作り感を持ってもらうことは大切だと思う。
これからはIT化とか機械知識の進展によって、人間が単純な知識をもとにして喰っていける領域は狭まっていく。どう考えても知識を詰め込むことが将来有利になるとは考え難い。それよりも素手で状況に立ち向かえる人間力を子供に身に着けさせることの方が重要だと思う。昔は子供が遊びを通じて獲得していた人間力をどのように復活させるのかが大きな課題になっていくだろう。