投稿日: Sep 26, 2013 1:20:1 AM
日本のワガママはいつまで?
MicrosoftがWindows95の開発をしていた時代というのが、今日のいろんなITのインフラつくりの時代でもあって、インターネットは当然としてマルチメディア技術・DVDなどのmpeg、電話のデジタル化など、人が必要な情報をデジタルで扱う技術が整った時代でもあった。Windowsはそれら登場しつつあるメディア技術のショウケースのような役割を果たし、個別の技術やプロジェクトは次々に現われては消えながら、Windowsだけは繁栄していったように思う。そのWindowsも今は新技術のショウケースではなくなりつつある。
その頃、私は日本では情報処理学会がホストする国際符号化文字集合ISO/IEC 10646(ほぼUnicode)の作業に関わっていて、いろんな経験をさせてもらった。新OSを巡ってはMicrosoft、Apple+IBM、Unix勢がそれぞれ将来の覇権を目論んで熾烈な争いをしている時ではあったが、なぜか彼らは一丸となってUnicodeを推してくるのであった。それはそれ以前のソフト開発が最初に英語で行われてから各国語にローカライズをする手間がかかってたのを、Unicodeによって最初からインターナショナライゼーションをすることが共通の利益だったからである。
そこで漢字の世界も日本・中国・韓国で1つの文字規格にせよという提案がUnicodeからあって、日本のコンピュータ業界はその案をつぶすために情報処理学会内に対応する国内委員会を設置した。そこでは3国の漢字規格を折衷したUnicode案を否定したのだが、その代わりに3国で代案を作ることになって、それが今の規格のベースとなった。この作業の時に一番大変だったのが表意文字と表音文字の世界で、文字とは何であるのかの概念が当然ながら異なり、また漢字を使っている国であっても、漢字しかない中国と、かなという表音文字を使う日本とでは微妙な文字概念の差があることだった。
これは歴史的なものでそれぞれの国において文化的に定着しているので、文字規格で新たな概念定義をしても社会に通用するものではない。端的に言えば日本の異体字問題であって、すぐに解決する方法などはないのである。ただ、こうしたらよい、というような考察はできるのだが…
日本人は文字に関してダブルスタンダードを持つ複雑な文化がある。漢字の場合は梯子高とか渡辺の辺とか細かな形にこだわりだすのだが、かなのカタチは少々書き違えていても文句はいわない。例えば「たえ」という名の人が居て「た」の中の「こ」の部分はつながっている、とか言う人はいない。「セ」の最後が撥ねているかどうかも、まずは問題にならない。表音文字は音が通じればよいからである。
また中国ではある漢字の概念に書体というデザインを適応してカタチにしているので、カタチのバリエーションはデザインの問題になり、渡辺の辺がたくさんあることにはならない。一点一画を細かく規定しても書体が変われば一変するからである。
日本だけが概念でも音でもないカタチを問題にしているといってもよい。だから日本の利用者の意見を国際舞台に反映することはきわめて難しい。それでもWindowsの世界は住民票や戸籍も扱うようになり、相当日本固有の用途に対応することを開発し続けてきた。しかしWindowsが社会に影響力をなくしていくようになって、モバイルの技術上にいろんなものが移行していったなら、もう文字のカタチに関して日本の利用者の注文を聞いてくれるところはどこにも無くなってしまうであろう。