投稿日: May 01, 2013 12:53:55 AM
なぜ本にこだわるのかと思う方へ
マガジン航にボブスタインの『本の未来とは社会の未来である』の翻訳が掲載されている。内容はボブスタインの持論であって電子書籍がどうなるかとか出版がどうなるかなどを論じているものではない。ここではボブスタインは穏健な表現を使っていて何かを破壊するようなことは語っていないが、内容は近代的自我の否定であり、出版になぞらえて言うならば、大ヒット作品を書いて大金持ちになったり偉い先生になるため、あるいはそれを夢見るための出版に対抗するようなことを考えているのだろう。
近代に発達した印刷はマスメディアを成立させ、それにうまく乗れば個人は著者として祭り上げられてメディアに君臨するかのように際立つ存在となった。実際には著者は何処にも何にも君臨はしていないのだが、メディアは情報を伝えるだけでなく、そのバラ撒いた数によって拡声器として機能し、読者は時としてはその内容よりも名声に目を奪われ、心も奪われることもあるだろう。紙メディアは制作するイニシャルコスト故に敷居が高いので、数の論理が入り込んでくるのである。
電子メディアが登場したときに、紙なら個人はガリ版程度しかできないのが、データで受け渡してスクリーンで見るメディアならば、一般市民も著名人も同じ土俵に立てることにボブスタインはとりつかれてエキスパンデッドブックを作ったのだと思う。
しかし今日に至るまで電子出版は到達点ではなく『過渡期』に過ぎないもので、まだマス出版の真似事を電子書籍では行っている。では自主出版が新しいメディアの姿なのだろうか?ボブスタインはそうは考えておらず、読書が先にあって、その行為の上に著述が成立するような関係に移行していくように思っているようだ。それはボブスタインが行ってきた著述にコメントをつけて共有するソーシャルな本の実験からもわかる。
さらにボブスタインが関心を示しているのは、テキストだけではなくゲームのようにマルチメディアで世界を創り出す、あるいは物語を創り出すことが、ソーシャルなネットワーク基盤の上で行われつつあることで、読者やプレーヤーが参加して作り上げていくような新しい表現形式とか参画方式のようなものが、次第に姿を現していくであろうことである。それはメディアが単に何かを伝えるというものではなく、個人と個人の関係を際立せる役割を担うのだと考えて「社会の未来」という言葉を使ったのであろう。
そのような時代になっても最初にきっかけとなる土台や骨格を提供する著者は存在するはずだ。しかしいったんそれが社会に放出されると、いろんな人が参加していって社会的に肉付けがされる、同時に楽しまれる。そんなものが主流になって、自分の著作を発表して文化人として君臨した気分になるという近代の病のような書籍は片隅に追いやられるとボブスタインは言いたいのではないかな。