投稿日: Nov 14, 2015 1:0:33 AM
私が子供の頃、名古屋に住んでいた時に、斜め前にお寺とお寺の経営する幼稚園があった。ある時その幼稚園が廃園になって、若いお兄さんたちが集う場所になっていた。元幼稚園にはブランコとか鉄棒・砂場などがあったので、近所の子供は遊びに行っていた。その横で上半身裸のお兄さんが物干しに食用カエルなどを吊るして、日本刀の居合抜きで切っていたりした。このお兄さんたちは子供と遊んでくれないし、薄気味悪い感じがした。
何と言う場所なのかはすぐに判るようになった。ニュースで日本社会党委員長浅沼稲次郎が日比谷公会堂で刺殺され、その犯人が愛国党に出入りしていた若者だったのだ。元幼稚園も愛国党の支部になっていたので、その事件の後に警察の人が張り込みのために庭の一角を貸してくれといってきた。学校から帰るとパイプいすに座って塀の隙間から愛国党に出入りする人を見張っている警官の姿がいつもあった。
これは愛国党の指示によるものではなく単独犯とみなされた。犯人は右翼の中でもイッてしまった人と考えられていたのだが、子供心に右翼というと元幼稚園で日本刀を振り回していた若者を思い浮かべてしまう。それは「言論」の対極にある何かで、むしろ闊達な言論には入って行けず背を向けざるを得ないような人の集まりのイメージなのである。元幼稚園の雰囲気も若者が集まっている割には陽気さがなかったのである。
当時は60年安保の後であり、日本に落とされた原爆の実態がどのようなものであったのか、やっと報道の管制が解けて写真の公開がされていた時で、民主主義の大衆的な盛り上がりは大きく、右翼は危機感を強めるも、有効な反論ができない状況だったのかもしれない。
パリでは13日の金曜日に無差別テロが起こっている。またISに心酔したイスラム系過激派ということになるのだろうが、思想犯というよりも個人的に鬱屈した無いかが重なってテロになるように思えて仕方がない。だいたい『13日の金曜日』を選んでいるのもいかにも社会に対する恨みつらみを感じさせる。
そういう意味ではテロの防止策は無くなってしまうのだが、テロを正当化するような口実を与えることはある程度防止できる。第2次大戦後のドイツでは反ナチス法が作られたようなものである。
日本の第2次大戦後の処理のまずいところは、東西冷戦が重なったドサクサで、戦前の総括を日本人の手でちゃんと行ってこなかったことだなぁ、と最近の動向を見て思う。
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