投稿日: Mar 03, 2011 10:41:7 PM
人はコンピュータに勝てるのかと思う方へ
我輩の辞書に不可能はない。と本当にナポレオンが言ったかどうかは知らないが、本という知識体系に照らし合わせて人間の判断や行動を考えるということが行われてきた。しかしそれは読書を通じた教養主義だけのことではなく、デジタルメディアになってもずっとそのままである。ある資格試験の問題を作ったときに、後から受験生が文句をいっているのに気がついた。それは出題テーマがインターネットで検索しても出てこないというものだ。実際にはキーワードをうまく入れると情報はあるのだが、検索の上位どれだけかだけ調べて探求がオワリという傾向は、最近よく見られるようになったと思う。これはインターネットであれ本であれ、人がお膳立てした情報しか情報と見なさないことであり、「リアル」な世界と、それを射影した「メディア」の区別がついていない。
雑誌の記事というコンテンツの単位では、すぐ内容が古くなって再利用できなくなることが多いが、大衆雑誌のようなメディアは、ある時代のある世代だけが共有する感覚を共有することが多く、過去の雑誌は研究テーマとしては面白いものである。メディアは単に各人が判断して行動するきっかけに過ぎないのだが、メディア化された情報が人を支配している面もある。クイズ王がコンピュータに負けた話があったが、既存メディアもデジタルメディアも情報を積み上げてきたし、デジタルメディアの方がアーカイブが無制限にできるので人間がコンピュータに歯が立たなくなるとか、ロボット時代になるのだろうか。
確かに似た判例を探すとか、固定的な知識を扱うのはコンピュータ化が進むことは間違いない。しかしソーシャルメディアの登場はこれまでのメディアに依存した見聞主義とはまったく異なる違う「知」を創り出している。これは前世紀末にマクルーハンの弟子であるデリック・ドゥ・ケルコフが書いた「ポストメディア論」では「コネクテッド・インテリジェンス」(従来メディアはコレクティブ・インテリジェンスであるのと対比して)と表現しているのが当てはまる。当時はまだソーシャルメディアは無かったが、固定的な集合知に依存すると欠落しがちな発想力を補うこともデジタルコミュニケーションをうまく使うと可能なことを感じさせた。
上記の本自体はソーシャルメディアもポストメディアも何も具体的には書いていない。だからポストモダンにおけるメディアが有り得るのか、メディア自体がコミュニケーションの中に解消されてしまうのか、答えはない。ただ「知」も「メディア」も従来の定義があてはまらないことが起きていることに気づいているかいないか、というのがこれからデジタルメディアに取り組む人には重要なことだろう。某Y新聞のボスは年頭挨拶で「新聞も本も読まず、ネットの世界にのみ侵入している若者は、将来日本を支える指導力、知性、生産力、倫理観等を身につけることができず、国民の文化や民度の劣化を招くものと心配している。」と言っていて、デジタルは手がけるにしても「あくまで新聞が主軸であり、ネットサービスは副業だ」としている。Y新聞系でも人気サイトはあるが、おそらくそこが一皮むけて「コネクテッド・インテリジェンス」のように突き進む可能性は低いだろう。
要するにデジタルメディアを手がけているかどうかではなく、また名目としてソーシャルメディアの仲間入りをしているかでもなく、単なる集合知を越えないと、人は過去の知識に縛られて過ごすだけだになってしまうのだろう。