投稿日: Mar 06, 2014 12:49:30 AM
高学歴が問題解決にならない
高齢になって戦後の日本を振り返ると、日本の家庭は大変な教育投資と住宅投資をしたと思う。しかし他方では失ったものもいろいろある。エリート層の高学歴は古今東西共通しているので問題にすることはないが、日本の場合はミドル層の中途半端な高学歴化というものがザンネンなことになっている気がしてならない。
そもそもミドル層が学問を追求しようとしているわけではないので、教養のためとか就職のための勉強を中高大とイヤイヤ形式的にしているに過ぎない。イヤイヤな勉強であるがために中身には関心を示さずに順位とか偏差値とか学校名とかだけが話題になる。本来なら大学の特徴がもっと話題になるべきなのに、それは二の次になっている。
本当に多くの勉学ニーズが就職のためであるならば、もっと実業の学校(カレッジ)をつくるべきである。今頃になって授業が英語で、英語が身に付くなどという大学が出てくるのは時すでに遅しと思う。大学も高校も家庭も受験産業も大衆的な高等教育の意味を不問にしてきたのは、本当のところは若者の面倒を押し付けるところとしては教養をまとった学校がよいだろうというくらいのことだったのではないか。
上記はわかりにくいかもしれないが、世界には教養のために何年も費やして社会に出るのではなく、18才になれば徴兵義務があって、兵役の経験を経てから実社会に出る国が多かったのである。韓国もそうである。イスラエルは徴兵期間が明けると世界に出て帰ってくる特典があって、その人たちが東京の路上でも針金細工のアクセサリーを売っていた若者がいたことがある。またユタ州ではモルモン教が主なので、若者はまるで徴兵のように世界に宣教にでかけ、日本でも「カミを信じますか?」と家庭を巡回していたりする。こういう宗教修行を経て社会に出るパターンはほかにもある。
第2次大戦で勝利したアメリカが企業のマネジメントも軍隊式にしたように、韓国の大企業の上意下達は軍隊式であって徴兵された経験のある若者はそれにハマりやすいことが、たまたま今は韓国の経済を押し上げる一つの要素でもある。しかし私は軍隊経験が若者を鍛えるのにもっともよいとは思わない。そういった国家の思想や行動の統制から解き放たれるために、戦後は個人を自立させようと教養を身に着けさせたのではなかったのか。
つまり国家とか因習によって個人の人生が決まるのではなく、本人なり家族の自由選択で暮らせる社会を作りたかったはずであるが、自由選択は自己責任でもあり、非常に荷が重いものであって、それを受けて立つ家庭というのは実際に周囲を見回してもあまりない。世界には自由選択・自己責任の国もあるが、そこにはもう一つ個人の自立を支える仕組みとして宗教があったりする。アメリカもその部類で、個人の精神的な苦悩の多くは宗教家に任せて小さな政府にしている。
日本は個人の自立を高学歴化だけでやろうとしても、個人的破たんは避けられないのだから、自殺が増えるようなことになるのがオチである。では政府が精神面の面倒まで見るべきか?そうなると国家の思想統制につながってしまうだろう。いったい人々はどう考えているのだろうか? 続く