投稿日: Apr 17, 2014 1:26:37 AM
商業主義がチャレンジすべきこと
以前、ドイツの科学書などを出版するシュプリンガー・フェアラークの方から、ノーベル賞を取るような研究に関する本はいくらも売れないという話を聞いた。受賞するとまた様相は異なるのだろうが、受賞の前は知られていないわけで、そもそも人々の関心を集めるテーマではない。それは他の人がまだ考えたことが無いようなテーマや内容では、そこからピンと来る人は滅多にいないわけで、だからノーベル賞につながる研究書が何百部も売れないことがあるという。平たくいうととても解り辛い内容であるということだ。
ノーベル賞の場合は受賞者本人の研究領域に居る他のわずかの人は内容を理解していて、その人たちは今更本を買うことはあまりない。その人たちはずっと以前から元となる論文を読んできたからである。そこから少し外れた人にとっては、もう論文は読んでもわからないものなのだろう。
つまり100~数百人の論文読者の外側に、同心円的に知の拡散がされないのが知のフロンティアの特徴なのだ。だからそのままほっておくとこの人の功績は忘れ去られてしまうかも知れないので、ノーベル賞が意義あるのだろう。
知というのは必ずしもフロンティアから同心円状に拡散していかないものだとすると、解り辛い内容を本として売るということには矛盾がある。シュプリンガー社の場合は専門家との結びつきを重要にしているので、ビジネスとは別の視点で重要かもしれない知のフロンティアを扱うのだろうが、話題になりそうな内容を右から左に流している出版社にとっては、何百部しか売れない専門書は相手にしないだろう。
そんなわけで学術ジャーナルという分野が商業出版と2重構造を成すような形であり、出版社だけが出版活動を担っているのではないことがわかる。
これと似たことはいろいろ考えられ、コアな100~数百人maxのコミュニティがいくら濃い内容の活動をしていても、そこから少し離れた世界には知であれ情報であれ広がっていかないものなのだ。例えば東日本大震災の救援ボランティアであれ、福島原発避難者の支援団体であっても、その活動で得た知見が世の中に広まっていくことはない。むしろ放射能の風説の方が先に拡散してしまう。嫌韓嫌中本が売れるというのも似たことである。
商業出版というスタンスでは必ずしも社会貢献になるとは限らないといえる。出版社や文化人が出版活動を「知の……」と形容したいのなら、この出版の商業主義を乗り越えることを考えなければならないだろう。それは今まで大量印刷ではできなかったことが、デジタルやBookOnDemandで可能になってきたからだ。紙を守れというのは知のフロンティアからはかけ離れたベクトルのように思える。