投稿日: Apr 19, 2014 12:47:25 AM
自己完結しないコンテンツ
コンテンツが大衆的に受け入れられるとヒットとなって良いビジネスに思われるだろうが、そうなるものの方が少ない。何がヒットするのかは予測はつかないが、時代センスをもったプロデューサならかなりの高確率でヒットを生み出せたりするのだろう。これはコンテンツをどう作るかというよりも、市場の気分をどうとらえるか、というマーケティングのセンスに重きがあるように思える。
学生時代に音楽の雑誌作りやレコードの通信販売をして半ば自営業のようなことをしていたのだが、自分はそれを職業とはしなかった。それは雑誌やレコード販売を通じて感じたのは、自分が評価する音楽と、日本で売れる音楽にはギャップがあることで、自分の好きなものを中心にしていてはビジネスは成り立たないだろうと予測できたからである。
つまり同じコンテンツでも、それをどこに持っていくかで評価は異なり、日本ではなかなか評価されないものでも、ヨーロッパは人気のものというのは結構多かった。つまり日本で売れるものはかなり限定的で、嗜好の範囲がなかなか広がらないのが日本の特徴だと思った。
つまりコンテンツの良しあしは、コンテンツそのもので決まるものではなく、市場とのマッチングで仮に決められるということである。だからコンテンツはいろいろ異なる市場とお見合いをした方がよいのである。ということはグローバル化はコンテンツにとっては基本的にはよいことであるようだ。音楽の場合は言語の壁を越えて世界的に広がる可能性を持っていて、事実そうなっている。映画は翻訳の問題がある。小説はもっと翻訳が難しい。でも可能性がないわけではないだろう。短い詩や俳句のようなものはいくら翻訳がうまくても、その背景知識がないと伝わらないから、翻訳と同時に関連情報は必須である。
工業製品と異なって、コンテンツはそれ自体でどのような機能や価値があるのかを表示することができないもので、そういう意味では商品としては自己完結していないといえる。つまり知らない人にとっては、レビューなり評判なりの外部情報がないことには、どのように評価してよいのかわからない性質がある。だから作品に接した後で、作品の感想とともにレビューのよしあしも評価されてしまう。レビューに騙されたとか乗せられたと思ってしまう人もいるのだろう。
ということはコンテンツにアプローチするための評価情報もコンテンツの一部を成しているともいえる。Jazzという音楽に対してJazzの雑誌に載っている情報がないと十分鑑賞ができないという関係はあるのだろう。
今日、紙の雑誌文化が衰退しているということは、自己完結度合いの低いコンテンツにとっては都合の悪い時代である。俳句を作る人はガラケーの時代からSNS化した楽しみ方をしていて、俳句に写メを組み合わせた様式ができてきた。しかし門外漢の人はそういう様式を知る由もないし、そこに入っていくのも難しいかもしれない。ネットでの深い利用方法は「知っている人は知っている」というクローズドな形になりがちで、オープンな広がりを持たせる機能がまだ欠けていると思える。
今後の可能性としては、自己完結性の低いコンテンツこそ、ネットのリンク機能で外部情報を充実させて、雑誌文化よりも広がりやすくできるように思うのだが、ネットではまだ検索エンジン依存の利用法中心でSNSでそのような試みはまだあまりない。