投稿日: May 21, 2015 12:57:16 AM
私は阪神パークから徒歩n分のところで育ったので、阪神パークには何度も行ったが、あまりよい思い出はない。自分の子供が出来て、やはりあちらこちらの動物園に連れて行って反応を見たが、ヤギ、ウサギ、モルモットなど小動物と遊ぶコーナーには異常に興味を示して1時間以上遊んでいるものの、檻が整然と並んでいる動物の監獄のようなところにはあまり興味を示さなかった。
子育て期間中の我が家は動物は飼わなかったが、祖父母の家には犬が居て、子供はそこで犬の世話をしていた。動物への関心は一通りではないようで、少なくとも小学生までくらいでは必ずしもいろいろな動物、特に珍しい動物に興味を示すものではなく、動物学的網羅的動物園は求められていないような気がしていた。
上野動物園も多摩動物園も何度も行ったが、そこに来ている小学生くらいの子供は、サルが何十種類居ても居なくてもどうでもよいような態度に見えた。自分の子供は生き物と一緒に居るとか生き物の世話をするようなことが好きで、結局大学進学もちょっとは関係したところになったのだが、世の中はそもそも生き物の世話が好きな人間ばかりではない。
子供の情操教育として生き物に触れる必要があるという考えがあるのだろう。幼稚園や小学校でも生き物を飼っている。生命とか生態系とかを考える上ではその延長でいろいろな試みをすることを行った方が、動物園に連れて行くよりも良いかもしれない。
動物園が中途半端なのは、前述で「動物の監獄」とたとえたように、狭い檻に陳列してもその動物の生態はわからず、上野動物園のゴリラとか、多摩動物園のライオン・バスのように、自然に近い生息環境を設えざるを得ないのだが、それは動物園の敷地の制約から特定の動物に絞らなければならず、多くの動物を置けなくなってしまうことだ。
自然に近い生息環境で来る人に楽しんでもらうならばサファリパークのような方がよいわけで、娯楽中心ならサファリパークとか何々牧場というところの方が家族で楽しみやすい。
動物園が作られた時代と言うのは、まだテレビも映画も、カラーの印刷物すらもなかった19世紀であって、その頃から世界の動植物がイギリスに集められるようになって繁盛したのだろうと思う。特に新大陸から生きた動物を連れてくることは、キリスト教的にも衝撃的で、ダーウィンの進化論を始め、神の創造の業というのが問い直された時代で、単に動物が可愛いとかで開園していたわけではなく、動物学的に必要性があったのだろうと思う。
しかし今は飛行機で現地に行くことは容易になり、学問的な意味での動物園の役割は減ったのではないだろうか。また一般人にとっても、テレビで動物の生態の番組が沢山見られるようになって、その種類たるや動物園に飼われているもの以上になってきたので、単純な好奇心で動物園に行く必要はなくなった。メディアを通じた生態の紹介の方が知識としては多くのものを吸収できるからである。
動物園が無くなることにはならないだろうが、どこも同じような金太郎飴的な動物の揃え方をする必要はなくなったのではないか?
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