投稿日: Dec 14, 2011 12:14:17 AM
コンテンツ増加が軍隊の員数合せのように思える方へ
今日本のコンテンツ産業の苦しみを考えるに、音楽も出版も1996-1998年ころに売上のピークがあったものの、この時期に作り過ぎたために、その後の調整に長い下降の時期があったことを、記事『日本のメディアビジネスは本当にダメなのか?』で書いた。CDの出荷がLPの3倍になったからといって、人々が音楽を聞く時間が3倍になるとは考えられないので、在庫過剰が起こったのであろう。本もバブル前と同じ売上ながら新刊点数は倍になって、やはり消化不良をおこしていると思える。今音楽も書籍もダウンロード販売に移行しようとしていて、この場合は売り場面積の制約がなくなるので、さらに多点数が扱えることをコンテンツ産業の起死回生にしようと考えている人も居るようだが、果たしてそのようになるのだろうか?
コンテンツ販売不振をマクロ的に捉えると若年人口の減少であり、ドンドン作り出して市場に溢れさせることは何のタシにもならない。むしろ今まで以上に若年層にフィットしたコンテンツの厳選や発掘が必要であり、それはコミケ、ニコ動のような自主制作系でも、宝島、電撃文庫などの商業出版でもウマく機能しているものから見て取れることだ。しかしこれを企画編集できる人があまりいないので、旧来の出版・取次・書店のがっちり組み合わさった中で経営するのに、多点数化すれば中にはヒットするかもしれない的な発想になったのであろう。
それでも点数が倍で売上が同じというバカげた方向に突き進んだのは、前世紀末からのデジタル化の普及で、入稿から下阪までの編集・制作の効率化が進んだからであろう。音楽も同じでアナログ音源をデジタルにキャプチャしてリマスターすることがパソコンで個人でもできるようになり、過去の音源が膨大にCD化されてしまった。今ではスマホのゲームなどのアプリが、やはりパソコン制作でどんどん値下がりしている。デジタルによる制作の効率化は、企業内ドキュメントなど非商業的なコンテンツにはマイナス面は出ないのだろうが、商業的には安直に作りすぎてしまうことを促進しているといえる。
安直さは必ずしも悪いものではなく、今まで記録されなかった情報がネットで共有されることが多くなったように、コンテンツの間口を広げる役割もある。しかしそれらをそのまま流通させてビジネスになるわけはない。記事『ソーシャルは目的か? 手段か?』では、ソーシャルバブルは弾けると言っている人のことに触れたが、その理由は消費者がそれらに付き合っている時間が足らなくなるからだ。むしろ携帯音楽プレーヤやKindle・タブレットのようなものは、生活者の時間を有効に使う道具として伸びる。つまり退屈な時間帯に、本来やりたいことを単刀直入にできるようにすることで、市場の拡大を狙うものである。だからその市場に投入すべきものは、欲しいものを時間をかけて探すのではなく、見たいものがすぐに見れるような段取りがされていなければならない。
よく言われたことではあるが、シェフのお勧めとか、コンシェルジュ機能を提供することが新たなビジネスになるので、安直にコンテンツを羅列しているだけでは、いつまでたってもブレイクはしないだろう。