投稿日: Jul 19, 2010 11:9:29 PM
デジタルはアナーキズムかと思う方へ
デジタルメディアリテラシーという言葉は一般性がないらしく、Googleで検索してもこのサイトしかない。ということは、世の中では何のことだかわからない言葉だと思える。今どのような情報も最初からデジタルで作られることが主流になった。それは一度の入力から加工して多目的に使えるからだ。メールを元に原稿にしたり、会議資料にすることはよくある。メモから人に見せるものまで一連の流れを自動プロセスにすることができ、グループウェアとかSNSが発達した。こういった情報伝達システムもアナログ時代の媒体に似せて「何々メディア」と呼んだりする。アナログ時代は媒体特性が固定的なので、そのメディアを理解することが対処法の第一歩であった。つまりメディアリテラシーはかなり固定的であった。しかしそれが根本的に変わるので、そのことをデジタルメディアリテラシーという言葉で考えようとした。
デジタルメディアでは固定的な枠組みができない。その顕著な例がtwitterで、情報を書き込むところも、ビューアもSeesmicLookやpaper.liのように別のソフトで行うと、全くtwitterを意識しないでもtwitterを使っていることになる。デジタルでメディアのようなものをシステム的に設定しても、いくらでも組み替えられるものになる。デジタルメディアでビジネスをしようとする側で考えると、ビジネスモデルは如何様にもできるので、独自性を維持することはできない。つまりメディアという形の「ビジネスモデル」は破綻したのである。当然メディアを使う方も、メディアに関して思い入れというのはなくなる。紙の本への執着が電子書籍の設計においてもいろいろ伺えるが、逆に電子書籍にどんな思い入れが持てるのかを考えると、何もないのではないか。
デジタルメディアの貢献はメディアそのものにあるのではなく、コンテンツがフォーマットから解き放たれるところにある。しかしこれは従来のアナログメディアを作っていた人にとってはとんでもないことなのである。最近大雨で大地が液体のように流れ出すことが多いように、出版のコンテンツもデジタルにネットに流れ出すようになったのである。これ自体の善し悪しを論じても始まらない。それは技術革新の結果だからだ。それと社会の調和というのは別の議論であって、技術以外のところで新たなルールが作られてバランスするようになるだろう。そのバランス点を理解するとか予知する能力としてデジタルメディアリテラシーという言葉を使っている。
デジタルによる情報の液状化に対して、異常な事態と考えるのは間違いで、もともと情報は水が高いところから低いところに流れるように、情報もギャップを埋めるように伝達されるものなのだ。その流れを制御することでフォーマットができるし、ビジネスが可能になる。先に電子書籍のスタイルを決めてしまって、そこにコンテンツを呼び込もうとするのは、もし「水の流れ」に沿っていなければ失敗する。アナログのようにコンテンツをフォーマットに閉じ込めることはできなくなったからである。逆にいえば今ダダ漏れといわれているところにこそ、新たなビジネスチャンスがあるのだともいえる。しかしこれに対処できるのはアナログのメディアのアナロジーの考えでは不可能で、情報ギャップのバランス点を先読みして考えないといけない。そこがデジタルメディアリテラシーの課題である。